ペタの哲学部屋

私ペタ(ハンネ)、が哲学を自重せずに展開していくブログです

個としての時間軸の観測

個としての時間軸の観測


生きていると何かしら考える

ではその何かしらとは何なのか

考え事の根本的な性質とは何なのか

ある意味ではそれが全てと言える

それが全て

と言う言葉は語弊を生んでしまうが

それが、というのは

~にとってという意味としてではなく

あれ、とか、それ

という意味でのそれになる


つまり、「何か」とは「全て」

という事だ


「全て」の性質として

人間が観測できるのは

物質と時間とで大別できる


物質と時間の関係

何かの答えを探し考える時

つい物質だけを見てしまい

時間の性質を蔑ろにしてしまう事がある


時間世界は物質世界とは次元が違う

物質の観測が平面的であるとするならば

時間軸の観測は立体的だ

とは言え

時間と物質の関係性は切っても切れない関係になっている

その事を語る上でまず


時間が無限に存在すると仮定する

無限に存在する空間に物体が存在すると

何が起きるのかという問題で

その答えとして「全て」が起こると言える


人間の寿命や今日一日という時間軸では

想像しにくいかもしれないが

無限とはようするに可能性に終わりが無いという事になる


最終的に物体は必ず何らかの物体と結合し

一つになる

別々であった物体が一つになるという事は

別々であったという個が崩壊したとも考える事ができる


例えば地球を観測し

早送りしたとすると

今ある地球とは別の形として崩壊しているか

あるいはその崩壊を巨大化と呼ぶ事が出来る


巨大化したと呼ぶ地球というのは

巨大化したという定義が

例えばガスの様な気体もその一部として見た場合の事だ


そんな意味では

今ある地球は

そもそももっと大きい地球の一部とも言える


とは言え

この様な話は想像力を最大限に発揮し

現象を飛躍させ論理化しているに過ぎない

想像の中では壮大な物事の性質について考えているものの

やはり私は、私達は

目で見る分には個として今ある状態を観測している


それは個として時間軸を観測している

という事であり

それが「生きている」

という事だ


命や物質が尊いのは

無限時間の中で限られた有限な個という状態であるからだ


そんな中で何かいい気分になる事がある

それをセンスと呼ぶとして


センスとは退屈な空間に射し込む

一筋の光と言える

そして退屈と多忙は相反する

無限という退屈な空間を自覚するからこそ

その空間に一筋の光を射し込む事が出来る

茶道や和の美術として

空間の美というのがあるが

その様な摂理を表現しているとも考えられる


まぁしかし、キャンバスの空間を全て色で塗った物よりも、日本画的な空間を活かした物が優れているというわけでも無い

単に絵の具が足りないか

サボっているだけの事もあるだろう

ややこしくなるが

キャンバス全体を塗りたくった絵も

空間の中にその絵があるのだから

その場所とのコントラストが生まれる


地球を巨大なフードプロセッサーでかき混ぜるとでかい泥団子が作られるであろうが

それを虚しく思い

今あるような状態を尊く思えるのは

無限時間のなか存在する

有限な命ある個として

この時間にある物体の全てが

同じ時間を過ごす友だからだと言える