ペタの哲学部屋

私ペタ(ハンネ)、が哲学を自重せずに展開していくブログです

いじめの善悪

いじめの善悪


生命におけるいじめ

蛇や蜘蛛が獲物を捕らえじっくりとなぶり殺しにして捕食するのは

客観的に見て好ましく無い

残酷だと思うのは自然な反応だ

あるいは

獲物が苦しまない様に一瞬で噛み殺すライオンと獲物をいじめるライオンとが居たとすると

前者の方が理性的で優れていると考えるのが自然だ

目的が何であれ他者に苦痛を与える行為はなるべく避ける事が知性を持つ者の義務なのだ

以上の事を踏まえたのなら

人間同士のいじめが良くない理由についてもそれが明確であると言える

人間は蛇や蜘蛛、ましてやライオンよりも優れた知性を持ち合わせている事が客観的に明らかで

ましてや共食いを強いられているでもないので基本的にいじめは言語道断なのだ

では次にいじめを正当化した場合について考えてみる

やりたいからやるのだとして

それでは剥き出しの刃と同じであって

その暴力的な感情を許すと言うのであれば

人間同士の争いは行く所まで行く

単純に考えて

1人が5人に虐められていたとする

その虐められている1人が反撃するには

5人分の戦力を集める必要がある

そして人間には知性があるので

それは比較的容易だ

なので次は55の乱闘になる

対等になり出したら今度は

そもそも不当な戦力関係を望んでいるのだから最初の5人は10人と数を集め出す

それらを繰り返し、形式化し

手がつけられ無くなったのが戦争だ

戦争の芽を紡ぐのは被害者にならない為にも明白な行為であるし

もし100200年先で戦争が起きてしまうと言うのであればそれも出来るだけ避けたいと考えるのが自然だ

荒地で屍になるよりも、文化や美しい自然がある所で屍になるのだと考えた方が

死に向かって今を生きる事のモチベーションも幾分かマシになる

精霊と言う概念

精霊という概念


生物の特徴として

明確な個を持つ存在とそうでなものとで

大別する事が出来る

前者は人間や動物、昆虫などがそれにあたり

後者は植物やも類、菌類などがそうである


魂について

例えば人や犬の魂がある事は一般的に想像しやすい

しかし植物や菌類に魂があると言われれば

前者と比べ違和感がある

その違いとしてそれらしいのが

個を持つものか

あるいはそれが曖昧であるかの違いと考えられる


植物について、例えば植木鉢に一輪の薔薇が咲いていたとする

その一輪の薔薇の魂は一体どこにあるのだろうか

植物の多くは葉や根の一部が欠けても生きていける

人間で言う所の脳のようなコア細胞があるとも考え難い

植物の命はその植物一つの命と言うよりも

種全体で機能していて

動物の様に個体の在り様にあまり頓着していない

挿木などの栄養繁殖を考えれば

一体誰が誰であるのか?と言うのがかなり曖昧である

よって、植物の魂

と言うのが植木鉢Aの植物の魂

の様な概念としては考え難いと言える


そこで精霊と言う概念が発生してくる

例えば、薔薇の精霊

とは一体何者の事なのだろうかと考えると

植木鉢Aにいた薔薇の魂

と考えるよりも

薔薇と言う概念そのものを司る魂と考えた方がしっくりくる


デジタライズ的に考えると

薔薇の精霊は

薔薇と言うシステムを司るメインAIの事で

会社で言う所の担当や部長の様な立ち位置と言えるだろう


例えば薔薇Aの魂は霊魂の様な思念的な構造を持たない構成要素の散らばりとして

例えば気の様なものとして裏世界を漂う

そしてそれとは別に

あるいはその要素から構成されるのが精霊と考えることができる


余談ではあるが

植物は生物が生きて行く為に必要不可欠な

酸素を発生させている事は世の常識になっている

人類はその事に早い段階で気がついた

だがしかし

もしその事に気がつかないまま現代まで進んでいたとしたら

植物は緑色のわけのわからない物体でしかないので

案外簡単に絶滅してその影響で人間もとっくに絶滅していたかもしれない

そんな未来線にならない為に

それこそ精霊の様な概念が仕事をしていたのかもしれない



動物の霊と

動物の精霊の違い

動物の霊と言えば

例えばポチと言う名の犬がいて

その霊と考えられるが

犬の精霊となると

それがかつて何者であったかは定かではないものの犬と言う概念そのものを司る魂であると考えることはできる

つまり、犬の霊魂とは別に

植物のように犬と言う概念を司る犬の精霊がいると言える


では、人の精霊とはなんだろう

人の精霊と言う言葉自体は聞き慣れたものではないが

神や天使と言われる概念が上記で言う所の

人の精霊と考えると腑に落ちる


個を持たなくなったものが

システムの構成要素の一部となって

個を離れて機能し出す事

それを精霊や神と言った概念として認識する事が出来る


何にせよ生あるうちはとにかく

個を持った存在として

個を尊重するべきであると私は考えている

だからこそ自分を持つ事

アイデンティティやオリジナリティを重視した価値観を大事にしたいのだと思う

その他大勢に流されて行く事は

個の分散であり

どうやら魂がそれを望んでいないのである

生にしがみついて生きていく

と言う選択は即ちそう言う事なのだと思う

神の様な尊重されがちな概念が

没個性の成れの果てと言うのであれば

醜く思われても個を尊重しようとする

その核が魂であり

その業が魂を輪廻させるのだと思う

優しさとは

優しさとは荒々しい波動を静めようとする精神エネルギーである


痛みを知ることで必ずしも

優しくなれるわけではない

優しさには想像と労わりが必要


そして想像と労わりは感受性から生まれる


感受性における原始的な部分の一つが

痛みである


痛みが荒々しい波動だとして

それを緩和しようと努力する事で優しさが生まれる事もある


情報社会では荒々しい波動に対し

容易にアクセス可能であり

その結果として我々は世界の残酷さを知る事になる

しかし全ての痛みを緩和する事など到底不可能である


着目した痛みのうちどれかを緩和しようとする活動も時として見られる

医者を志す場合やなんらかの施術士を志す場合

より本質的な部分に着目し

反戦、アニマルウェルフェア

環境保全

心理、ボランティア

等様々な活動があるが

痛みは生物にとって根本的にどうしようもない性質を帯びている


痛みは生物から切り離す事が出来ない宿命にある

ただ、強いて言えばAIの様な存在にはそれが可能かもしれない


完全な無痛症

且つ精神的にも完全に無痛である状況があったとしても

生物にとって極めて稀である


痛みがあるのは生きている証拠とも言える

仮に完全に無痛の状態だとしてそれが死と同義とも限らないが

痛みが生物にとって避け難い困難である事は確かであり

基本的に生きる事は痛みと隣合わせである


優しさとは荒々しい波動を静めようとする精神エネルギーであるとして

エネルギーには強弱がある

緩和しきれる賢さや大きさには個人差があり

その働き方もケースバイケースで異なる


人生が何らかの力の獲得を経験する修行だとして

優しさと言うエネルギーの鍛錬を課されてる場合が多い

人に安堵をもたらす絶対的な要因は成長であり

人間の魂は優しさの実現を必要としている

罪と神

罪と神


この事に気がついた大まかな流れとして

鉄拳7をプレイしていて

ニーガンと言うキャラが気になった

ニーガンはウォーキングデッドと言うドラマに出てくるキャラらしいので

アマゾンプライムビデオでウォーキングデッドを見ていた事と

YouTube動画で「サピエンス全史」と言う

人類史についての本の紹介を見た事が切欠になっている


まずサピエンス全史とは

海外の天才人類学者が人類のルーツについて

語る本であり

それによると人類の祖先

ホモ・サピエンスは他の似たような種族であるネアンデルタール人3種の種族と戦争し生き残ったが為に繁栄したとされている

しかしホモ・サピエンスが特に優れた存在であったわけではなく

認知革命と言う現象によって生き延びる事が出来たと言う説が有力らしい

そして認知革命とは

つまりは嘘をつき、そして嘘に騙される

と言うムーブメントの発生を意味する

要するに人類は誰かがほらを浮き

まんまと騙された間抜けが集まり

数がまとまったので数の暴力で生き残ったらしい

そしてウォーキングデッドを見ていて思ったのが神と言う存在についてだ


ウォーキングデッドは感染が拡大しゾンビが大量発生したせいで文明が壊滅的な状況になり

僅かに残った人間達がどうにかしてサバイバルしていくドラマだ

ウォーキングデッドでは

そんな絶望的な世界の中で

人々のエゴやストレスが渦巻き絶望し

僅かな希望を求め神に祈るシーンがよく出てくる

こんな世界に神はいるのか?

人間は何故生きているのか?

何故我々は罪を背負うのか?

と言う様な事を考えさせられる


そこで、神と言う概念もまた

認知革命によるものと考える事が出来た

人間はそれが嘘であれ虚構であれ

信じる事でどうにかして人間らしさを保とうするものなのだと言える


神、特にキリスト系の考えでは

よく罪について語られる

罪、カルマを背負った魂が救済される為に

神の愛をもってして浄化してもらい

ノアの箱船で天国へと向かう

よく知らないがまあ大体そんな感じだと思う


それはさて置き

キリストの立場で考えてみれば

例えばキリストが宇宙人か何かだとして

宇宙人からしたら

人間が何故、罪と言う概念に苦しみ

わざわざ罪をなすりつけあい不幸を拡大させていくのかが理解し難いと思う

そんな訳の分からない罪と言う虚構

認知革命の負の遺産を解消するシステムとして導入されたのが

神と言う概念と考えられる

つまり

認知革命とは神の誕生を表しているのだ

言うなれば認知革命そのものが神と言え

信じると言う概念が神であると言える

そしてそれにより人類は繁栄したと言える


確かに、神は嘘っぱちの虚構かもしれない

しかし人類はその虚構故に生き残り

現在に至る

なので人類が神の子である事も

巡り巡って正当化されるのだ


嘘には尾ひれが付くと言うので

神話やらなんやらは

昨今のファンタジーの様に多様性に富み

ずいぶんと訳の分からない事になっている

その中から何が真実であるかは断言し難いが

認知革命により人類が生き延び

認知革命により神が誕生した

と言う事は合点が行く


さて、人は虚構に対し

真実を求めるものでもあるが

真実もまた虚構から生まれたものと言え

いかんせん矛盾を孕んでいるかに思える


虚構と真実を丁度いい感じにまとめた概念として神を信じる

と言うのも案外悪くない気がした

とりあえずなんとも言い難いそれは

神による何かなのだと

言う事にしておこう

幸せとは何だろう

幸せとはなんだろう

そもそも生物は幸せになる必要が

幸せを求める必要があるのだろうか


虫が捕食し交配する事は

幸せを求めてのことだろうか

草が水を吸い光合成をするのは

幸せを求めるからなのだろうか


幸せとは人間が定義した感情の一つに過ぎない

その感情をより根本的に中心によると

そこにあるのは本能だと思われる


つまり幸せとは本能の一部を定義した感情であり不幸もまたそうである


本能が中心にあるのならその右斜め上くらいに幸せと言う感情があり

その対角線に不幸と言う感情がある

そしてその周りには他にあらゆる感情がある

しかしどれも根本的には本能から分岐した

氷山の一角を定義して判断したものに過ぎない


言語的に幸せであるとか不幸であると区別したものは

本能がアメーバの様に複雑に変形したものを

憶測でその定義が適切であると判断し言葉で言い表しているだけなのである


人間には定義された感情が多数あるが

それらが機能する必要性はあるのだろうか


本能と言う核があり

その周りに定義された喜怒哀楽の感情がある

本能はおそらく成長や運動を望んでいて

感情をどこかしらに動かしたがっていると思われる

本能は死なない程度に色々試しながら成長しバランスを取る事を本質的に求めている

つまり本能はその生物が成長と生存する為に備わったプログラムと言える

よって

幸せと言う感情を求め続けるのは

かなり偏った運動と考えられる

感覚的に右斜め上にある幸せと言う感情を求め続けると

左斜め下の不幸と言う感情が反作用で活性化する


それらを自覚した上で

感情の自覚がクリアである人もいれば

不透明な人も居る

人と人は他人の不透明な判断に影響され

ストレスを溜めたり、押し付けあったり

あるいは友好的になったりする


幸せや不幸と言う概念すら

誰かが定義した言葉に過ぎない

しかしながらその言葉に影響され

本能がそれらしい形を作る


今不幸であるとか幸せであるとか

幸せになるにはどうすればいいか

と考える事自体が

本能が定義に踊らされているだけなのだ


一度感情定義から離れた本質的な本能と向き合えば

疲れるなら無駄に踊らず休むべき時に休み

ふと感情を動かしたくなったのなら動かして見ればいい事に気がつく

30億人

30億人


人口が60億人だとすると

その半分は30億人という事になる

そしてどちらかと言えば勝ち組か負け組か

を区別したら

どちらかが30億人と言う事になる

なぜ負け組なのか

なぜ勝ち組なのか

それを考えても

どちらにせよ30億人の内の一人である事に変わりは無い

なので大衆的な統計を元に得た成功法則の理論は

どうしても残りの30億人が救われない

つまり

基本的に人生の法則は無意味なのだ


追記

最近、世界の人口は77億人くらいとされているらしいので

ちょっとだけ(17億人

足りない

なんとなく60億の印象のままだったので若干(17億

時代錯誤だった

77は割りにくいので

80億の半分の40億と変換する

ていで未来人に読んでほしい

でもまぁいいじゃないそこは



しかし地球に存在するのは人間だけでは無い

他の動物や植物と比べれば

大抵の人間は賢い

知能についてそれなりに優れていると言っても過言ではない

草木を感じ癒されたり

ペットに癒されたり優しくする事が出来る


要するに60億人全てが救われる方法は

自然に寄り添う事以外に無いのだ

例えば蚊やノミに生まれたとして

簡単にやられてしまう彼らはあまりにも不敏だ

それでも彼らは彼らなりに出来る事をする

水は受動的にしか動く事が出来ないが

生命は能動的に動ける点で優れているので

水があれば水を飲める


人間vs人間の争いで優位に立つ事よりも重要なのは自然を感じる事だ

もし勝ち組か負け組かを明白に数値化する装置があったとして

50%を下回ったら多くの人が落胆してしまうだろう

だがそれでも人間には人間以外に着目する手段があるのだ

そしてそれはある意味で言語を捨てると言う事でもある

自然を相手にした時

言語は意味を持たない

別に言語を使ってもいいが

それは何かの鳴き声と同じだ

ベラベラ喋って賢くなった気になっているのは自然からしたら

やたらうるさい子犬みたいなもので

バカらしくも思える

なので一周回って何も考えず

言葉に頼らずに

無の境地に達する事は人生において重要と言える

自由意志について

自由意志について


哲学的な話で偶に聞く

自由意志と言う言葉

そもそもこれって何のことなのかよく解らなかった

そして調べてみると余計に訳が解らなくなってきたが

その原因と共に自分なりに自由意志とは何か

という事をまとめる事にした


重要な部分は

自由意志とは自由行為では無い

と言う点

自由意志について語られる時

存在する派と存在しない派に分かれ

論争が起こり

昨今は存在しない派が優勢にある用に見られる


自由意志が存在する派は

自由意志と自由行為が混同しているせいで

間違えている

と言うのが非存在派の主張

つまり自由行為そのものは当たり前に存在すると言われている

普通に考えて自由にしていい状況で

自由に行動するのは当たり前の事だ


そこで、問題なのが

そもそも意志とは何か

と言う問題だ


自由意志が存在しない派の考えとしては

何らかの意志決定には必ず

何らかの外部的要因が影響するので

本当の意味で自らがなんの影響も受けずに意志決定をするのは不可能であると言う主張だと思われる

例えば完全に無空間の状態に人が一人いたら

その人の意志がどの様に決定されるかを考えた時

物理的には何も影響を与える要素が無いのだからそこに自由意志が存在する事になるかもしれないが

そんな特殊な状況に晒されている事自体が

不自由な意志へ誘導されていると考える事も出来る


とまぁこんな風に訳が分からなくなってくるのだが

その意味が解った


より根本的な部分で

意志とは何か?

と言う問題は個人の価値観に由来すると言う点だ

そして

意志の捉え方を大別すると

「意志とは使命である」

と感じている者と

「意志とは選択である」

と感じる者に別れる


この違いは大抵幼少期からすでに現れて

一度定着すると考え方が変化し難い


1+1=2

と答える場合は使命に忠実なパターンで

1+1=それ以外の何か

と考える場合は使命に反骨的であり

選択的であると言える

既に答えが決まっている事に対しても

あえて選択肢を増やすのだから

それが選択的である事に間違いは無い


意志とは何か

と言う問題で

それが選択であると仮定した場合

自由意志は存在する事になる

何故なら例え誰もが違うと言っても

1+1=2と言う当たり前の事すら

別の答えを選択する事が可能なのだから

客観的に正しいかどうかすら関係ない

逆に言えば

意志とは頑なな使命であると考えた場合

通常の計算なら1+1=2である事は揺るがないし

偉い人が自由意志は無いって言ってるから

あるいはよく考えて納得して出した答えをそう簡単に崩そうとしないから

どうしても無いって事になる


意志とは何か

と言う答えが価値観によって

全く逆の意味になる

なのでそう言う性質を持った言葉には

パラドックスエネルギーがあって

言葉遊びが捗るってパターンなんだなぁ

思いました。


追記

そもそも

意志=使命

とした場合

自由な使命とは矛盾するが

意志=選択

とした場合

自由な選択と

矛盾しない


追記

2019 6/29

選択=それでいい

使命=それでなくては、それではダメ

と言う具合に意味を砕き

意志=選択とした場合

自由意志はあるからそれでいい

となり

意志=使命

とした場合

自由意志は矛盾しているのでそれではダメなので無い

と言った具合になる

意志とは選択と使命を含んだ

矛盾した概念であり

自由は自由

単に空白の様な概念

自由意志と言う言葉には

何も無い空白に剥き出しの意志が放り出され

魂のなんたるかについて永遠と考えさせる様な魔力がある

何かそれらしいものでなくてはならないと言う使命感と

それはそれで別にいい

と言う虚無感等が複雑に入り組んだものが意志であり

自由意志について考える事は

自分自身の根本的な意志を見つめる事とも言えるかもしれない