ペタの哲学部屋

私ペタ(ハンネ)、が哲学を自重せずに展開していくブログです

パラドクスエネルギー

パラドクスエネルギー


人間は問題に挑む時に力を発揮する

しかし問題が問題である

と言う事はその問題に直面した当事者が非力であると言う事を表している


強さ、力、と言う物はそもそも矛盾した性質を持っている

例えば世界一の強者がいたとして

その強者が本当に強者なのか調べるには

より強い強者が必要になるが

より強い強者がいるのなら世界一の強者と言う前提も崩れる


生物が強さを発揮するのは

その生物が脅威に晒された時である

脅威に晒されるのは弱者であるからと言えるが

脅威に晒される事の無い者は強さを発揮する事も無い


問題を解決する能力は

問題を問題だと思うから使われる


力とは何らかの困難に遭遇した時に自覚可能になる


これは例えば

相対性原理の説明で語られる様な

進み続ける物体A

進んでいる事を証明するには

通り過ぎ去られた物体Bが必要であるが

AからしたらBが進んでいるのか

止まっているのか

BからしたらAが進んでいるのか

止まっているのかが解らない

と言う問題に似ている


水槽の中で空気を発生させると

気泡が浮く

しかし厳密には

空気が上がっているので無く

水が下がっているのかも知れない

と言う事が疑問になる


何らかの物体が運動する

と言う事自体が矛盾の産物と考える事も出来る

何かがおかしく

何かが狂っているから力が発生すると言う事で

全てが正しく機能している状態では

何一つ運動が見られないのかもしれない


人が座禅を組む時は

どこか悟りめいた物を感じ取れる物だが

これは

何も起こらない事が正しい形である

と言う事なのかもしれない


しかし力が強いと言う事は

座禅を組むのとは逆で

わざわざ上げなくてもいいダンベルを

踏ん張りながら持ち上げている状態と言える


わざわざ間違った事をし

勝手に問題を定義するほど力が発揮される性質がある


生物や人間の行動パターンに限らず

物体の運動法則自体が

力を発揮する条件として

そこに矛盾を必要としているとも考えられる


現実がシミュレーションだとして

物理法則の原則が

矛盾の解消=力の発生

と言う仕組みになっていて

何らかの結論を出すため

あるいは矛盾の集合体に対抗する手段として

スコア稼ぎをさせられている様な気もしてくる


我々は、あるいは私は

例えそこに問題や疑問が無くても

それを問題や疑問として見ない事には

退屈してしまう性質がある

飯を食わないと腹が減る様に

常に何かが間違っている

と言う自覚を必要としている


そもそも正しいとは何なのか

無駄な運動をしているのなら

止めなくてはならないし

運動していないのなら運動しなくてはならない


自分でも何を考えているのか解らなくなるが

どうやら解った気になったり

解らなくなったりを繰り返さ無くてはならないと言う性分があるらしい


エネルギーを発生させる方法が

疑問や矛盾であるらしく

現実が何かが違う様に思える事が多いのは

それだけ思考エネルギーに変換可能な

資源が豊富な状態とも言える

生物の原始的な性質として

水と空気が必要で

水中に潜るから空気を感じられる様な

問題と解決

相反する現象の中に生じる矛盾が

命や力の性質なのかも知れない

しかし

なんかわけが解らん


電気と哲学

ただの勘だが

多分

電気は物質の始まりで

あらゆる物質の正体はおそらく

電気がそれぞれ異なる条件で結晶化した結果だと思われる

それが事実だとすれば

シミュレーション仮説とも奇妙な相関性が感じられる


上記が正しかったとして

知覚しやすい痺れる様な電気は

物質をより本来の姿に近づけた結果と言える


そもそもにして

電気の本質とは何だろう

プラスやマイナスの電荷の移動が電気なのか

と言えばどちらかといえばそれは電流である

電荷の移動が見られない場合

それを電気と呼ぶには相応しくないとして

動的状態を加味して電気と呼ぶに相応しいとしたら

時間軸との掛け合いも相関性を感じ取れる

世界の真相は物質と時間の真相であり

それが電気で出来た何かなのだとしたら

やはりシミュレーション仮説との相関性が見られる


電荷の移動を哲学的に考えれば

物質が本来の行き着くべき所へと向う

と言う魂のあり方と類似している

上記の考えでは

電気の行き着く先が物質だとして

物質的である命のある人間は

逆に魂が死んだ様な状態と言える

我々は何処と無く生きていると思っているが

実は逆で死んでいる状態と言えるのかもしれない

そうだとして

いわゆる物質的な死が意味する事は

はなから死んでいた魂が散らばった状態なのかもしれない

人間の記憶が電気信号的な物だとすると

なんとなく物事を忘れていくのは

何らかの魂が消失していっているのだと言える

そんな忘れられた魂がどの様な状態にあるのかは疑問である

電気が個として結晶化している状態が命だとして

それが崩壊した時どうなるのかが疑問である

質量保存の法則は電気的エネルギーにも適応されているのだろうか

エネルギーは永久的であるのか

あるいは終末が存在するのか

終末が存在したとしてそれは一体どう言う事なのか

物質が動的であるか静的であるのか

と言う問題も

物質が厳密には動的であると思われる点で矛盾している

完全であるか不完全であるか

と言うロジック自体

比較によるパラドックスに満ちていて

言語化する事自体困難で不可能なのかもしれない

例えどの様な科学的実験をしても

それを理解する脳が人間の限界を超えているので

立証した気になる事は出来ても

本当の意味で立証するのは不可能なのかもしれない


人は不可解に対し苛立ちを覚える事があり

理解に対し優越感を覚える事がある

現実の本質がそもそも理解不能な物だとして

それを理解しようとする人間には

まるで天罰の様に苛立ちが下され

解り様が無いような事を解った気になっている人にはそれで良しと言う意味で優越感を与えられているのかもしれない


となればトドのつまり哲学の役割は

解って無くても解った様な気になる術が重要と言える

如何にしても己を騙すかは

如何にして命を保つかと言う事と同義と言える

何故なら生きていると思うから生きているのであり

実際の所真相は不明だからだ

個としての時間軸の観測

個としての時間軸の観測


生きていると何かしら考える

ではその何かしらとは何なのか

考え事の根本的な性質とは何なのか

ある意味ではそれが全てと言える

それが全て

と言う言葉は語弊を生んでしまうが

それが、というのは

~にとってという意味としてではなく

あれ、とか、それ

という意味でのそれになる


つまり、「何か」とは「全て」

という事だ


「全て」の性質として

人間が観測できるのは

物質と時間とで大別できる


物質と時間の関係

何かの答えを探し考える時

つい物質だけを見てしまい

時間の性質を蔑ろにしてしまう事がある


時間世界は物質世界とは次元が違う

物質の観測が平面的であるとするならば

時間軸の観測は立体的だ

とは言え

時間と物質の関係性は切っても切れない関係になっている

その事を語る上でまず


時間が無限に存在すると仮定する

無限に存在する空間に物体が存在すると

何が起きるのかという問題で

その答えとして「全て」が起こると言える


人間の寿命や今日一日という時間軸では

想像しにくいかもしれないが

無限とはようするに可能性に終わりが無いという事になる


最終的に物体は必ず何らかの物体と結合し

一つになる

別々であった物体が一つになるという事は

別々であったという個が崩壊したとも考える事ができる


例えば地球を観測し

早送りしたとすると

今ある地球とは別の形として崩壊しているか

あるいはその崩壊を巨大化と呼ぶ事が出来る


巨大化したと呼ぶ地球というのは

巨大化したという定義が

例えばガスの様な気体もその一部として見た場合の事だ


そんな意味では

今ある地球は

そもそももっと大きい地球の一部とも言える


とは言え

この様な話は想像力を最大限に発揮し

現象を飛躍させ論理化しているに過ぎない

想像の中では壮大な物事の性質について考えているものの

やはり私は、私達は

目で見る分には個として今ある状態を観測している


それは個として時間軸を観測している

という事であり

それが「生きている」

という事だ


命や物質が尊いのは

無限時間の中で限られた有限な個という状態であるからだ


そんな中で何かいい気分になる事がある

それをセンスと呼ぶとして


センスとは退屈な空間に射し込む

一筋の光と言える

そして退屈と多忙は相反する

無限という退屈な空間を自覚するからこそ

その空間に一筋の光を射し込む事が出来る

茶道や和の美術として

空間の美というのがあるが

その様な摂理を表現しているとも考えられる


まぁしかし、キャンバスの空間を全て色で塗った物よりも、日本画的な空間を活かした物が優れているというわけでも無い

単に絵の具が足りないか

サボっているだけの事もあるだろう

ややこしくなるが

キャンバス全体を塗りたくった絵も

空間の中にその絵があるのだから

その場所とのコントラストが生まれる


地球を巨大なフードプロセッサーでかき混ぜるとでかい泥団子が作られるであろうが

それを虚しく思い

今あるような状態を尊く思えるのは

無限時間のなか存在する

有限な命ある個として

この時間にある物体の全てが

同じ時間を過ごす友だからだと言える

日本語の重大なバグ

日本語の重大なバグ


哲学においてそれが言語ゲームとしての

特性がある事は軽視出来ない

ウィトゲンシュタインの論理学哲学考

略して論考と呼ばれる物があるが

あれを読み解いた日本人は殆どいないだろう

私は軽く目を通してすぐに諦めた

そもそもの問題として

元々極めて難解な文体を日本語に翻訳しているのだから

何が何なのだかさっぱり解らないのは当然で

日本語でそれを解ってしまう事自体が誤りとも思える


それはそうと本題に移るが

哲学的言語ゲームにおける

日本語の重大なバグを発見した

もしかしたら我が国はこの単純な原理を見送ってしまったが為に

哲学的命題の証明が遅れ

思想が浅い国民になってしまったのではなかろうか


今回発見したバグ

というか、言語システムとしての問題は

「意味がある」又は「意味が無い」

と言う言葉だ


そんな事になんの意味があるんだ?

そんな事にはなんの意味も無い

当たり前の様に使われている言葉だが

よく考えてみると

違和感と疑問が湧いてくる


意味とは何なのか?

と言う問題


つまり、意味の意味

と言う事になるがそれでは重言してしまい

説明になっていない


ではまずは解る事から判断していく事になる


そもそも意味とは、物体の事では無い


物理的に意味はあるわけでも

無いわけでも無いのだ

つまり意味とは物質では無く状態の事だ


では何を持ってして意味と言う言葉を使うのかを考えると


意味とは、目的に対して有益な効果が期待できる状態の事と考えられる


では目的とは何だろう

根本的な目的とは哲学的命題の本質部分であり

人はどこから来てどこに行くのか

と言うそれぞれ個人が魂で感じ取る

人生の捉え方の事と言える


もう少し解りやすくすれば

目的とは気分で決める行為の事だ


つまり目的とは

突き詰めれば「何となく」

と言う形の無い事なのだ


そこで、意味がある、意味が無い

と言う言葉の性質を考え直すと


ある、無い、とは言うものの

それは例えであり

正確には

意味をつけた、又は意味をつけない

と言う自主的な判断の事と言える


全ての事に意味がある

と言う言葉もよく聞くが

この言葉も何か変だ


そもそも、あるとか、無い

と言う事では無くて

誰かの目的次第では何かの意味をつける事もあるし

特に意味をつけない事もある


目的や意味を見失ってしまった

と言う話を聞く事があるが

実はそれは勘違いなのだ


誰かが何かに意味をつけたり

意味づけに対して蔑ろにしたりしていて

その様な根拠の無い価値観と

日本語の言語としての怪しさに惑わされてしまっているだけなのだ


何故かその様な事で悩んでしまう事が

多々あるが

言語の用法としてそもそも間違っていた

と言う事に気がつかなかったから

いつまでも言語ゲームでエラーが発生し

そのループから抜け出せなくなる


意味がある、意味が無い

と言う言葉は人を思考停止させてしまう

バグなので気をつけた方がいいかもしれない

思考探求報告書

思考探求報告書


昔から読み物に関して

形式的な物を好まない性分があった

新聞や教科書の様に

一定のルールに沿って書かれた内容

と言う物に対してすぐに飽きてしまうのだ


具体的且つ現実的な文章と言うのは

誰かが何かを観測した事を

より大衆的に客観的に厚化粧している様なもので

その様な物に時間を費やす価値が無いように思えてしまう


例えば人の顔がのっぺらぼうで

そこに顔の絵を描き

その絵がよくできていたからといって

その人を好きになったりはしないだろう


形式的で誰がやっても同じ様な内容の事には

あまり価値が無いように感じる


そんな中で興味を持てる物は

書き手独自の思想を感じられる物だ

例えば新聞を読む習慣は無いが

新聞の中で選ぶなら

隅っこにあるコボちゃんとか山田くん

何気無いコラムの様な部分は

少しだけ読む価値がある様に思える


技術的な利用価値を考え

新聞やニュースの内容を話題の種にするのであれば、参考にできない事も無いだろうが

会話の命題としてその様な事を選ぶのは

かえってナンセンスな気がする


昨日どこかでよく知らない誰かが何かをした

と言う自分とは関係無い言葉よりも

身近な人におはようと言われる事の方が大事だ

その様な何気無い言葉の価値の方が

人生における重要性が段違いなのだ


しかし

そんな中、では誰もが挨拶を交わす

昭和風情のある下町のような温かい生活ができるかと言えばそうでもない

けれども

文章や表現において

どこかその人らしさを感じられる物には

それ特有の人間味があり

それが大事で

その時の感じた事を深掘りし飛躍させていった物が好きだ


人生における報告書の価値として

ただ単に箇条書きの様に

どこで何があったかと言う目に見える事は

誰がやっても同じ事

知りたいのは心の内側で

何が見えて何を感じたのかなのだ


形式的なアルゴリズムで綴られた物が

多い昨今

その様な物に染まってしまわない様にしたい


そんな思いで書き物のタイトルを選ぶとして

思考探求報告書と言う言葉が浮かんだ

この様な物をコピー用紙にコピーして

人生の報告書として利用したとしたら

何かいい感じがする


あれこれ化粧しない質素な質感がいい

普通の紙に書かれたその人特有の内容

まるで手紙の様な感覚なのだろう


簡潔にまとめると

ベストセラー小説やら業務的な重要書類より

想いのこもった手紙の方が大事だよねって事


他人の人生は得体が知れない

他人の人生は得体が知れない


運命、天性とは何か

誰がどの様にして生まれ

どの様な道のりを辿り現在に至るか

人はそれを運命と呼ぶ

そして予め備わっていた性質の中で

特に優れたものは天性と呼ばれる


自分の性質、自分の辿った人生

それらは記録するか

あるいは記憶するか

または身近な人が語る等すれば

ある程度説明できる


ではもし仮に

人生の全てをハードディスクに記録し

多くの賢い人々がその人生について議論をしたところで

それが彼の人生だと呼べるだろうか?


どんなに精巧に再現した所で

表現されたものは実体ではない


古代ギリシア哲学的な意味での実体とは

得体の知れない神がかった何かとして

その問題について議論がなされてきた

そしてその考え方は宗教的な思想に分化している

実体は神の世界に存在すると唱える者もいれば科学的な証明が可能と唱える者もいる


実体とは何かと言う問題は底が深く

トドのつまり

実体が何かわからないのは

誰も実体を失った経験がないからだ

よくわからないがなぜか人は生きていて

存在をなんとなく自覚している


そんな人生と言う現象について

多くの物語やノンフィクション作品

あるいはリアルタイムでの出会い

人間関係を通して我々は他者の人生と

自己の人生についてその違いを学ぶ


当然、いい事もあれば悪い事もある

そして悪い事

嫌な事、苦痛については一見して幸福な状況より遥かに凄まじい破壊力がある


例えば一日を振り返り

夜が来るまでは最高に調子がよく

誰もが笑顔でくじを引けば必ず当たったとする

しかし夜がきたら交通事故にあい足を切断する事になったとしたら

ちょっとしたラッキーな出来事など帳消しになる


生物が負傷し苦しみを味わう事は

考えてもみればごくありふれた現象だ

フライドチキンが美味いという事は

殺された鶏がいたと言う事だ


そんな数奇な世界に住んでいると言う現実

その中で更に数奇なのが幸福だ


冷静に考えれば犠牲しか無いような現実で

どういうわけか人生では幸せを感じる事がある

そしてそれが他者の物である場合

自分が味わった事の無いような優れた境遇について語られる事がある


まぁなんというか

誰でも何か幸せで優れた存在を羨むものだ

多種多様な人生の中でも花のある人生は目立つ


だが自然界における花の数は

岩石や海水、その他の物体と比べ稀だ

ただ稀であり目立つと言う事

そして人間の何らかの欲求を満たし得る可能性を感じさせる物の事は

おかしみと呼ばれる

ようするに、なんかいい

という感覚の事


どうも現実というカオスに生まれてきた

思想を持つ存在として

藁にすがるように求めずにはいられない物が

この「おかしみ」なのだろう


命のある物体と命の無い物体

その中で命のある物体は稀で

その運命そのものが「おかしみ」

全ての生命が「おかしみ」であるのだから

何者であれ

その良さが活かされるに越した事は無い


現実と言うカオスの中

生きる上で必要になるのが

水槽の中の貝か何か

多分金魚は口から気泡を出さないと思うが

そんな泡沫のような「おかしみ」

それを生産し、あるいは単に尊む事が

生命の持つ本質的な役割なのかもしれない

例えば珊瑚や水草がそうであるように

形容の法則

形容の法則


巷では~の法則と言う言葉をよく見られる

そこでふと

法則とは何の事なのだろうと疑問に思った


学校で習う様な科学における法則とは

数式で表す事が出来て

周知の事実としてだいたい疑う余地は無い

物理的に多分その様になっているのだろうと思える

しかしながら~の法則と言う言葉は

これといって根拠らしい根拠も無く呼ばれていたりして

そう言った意味で法則とは

誰かしらが経験則から感じた規則性を定義付けた物

と言える


つまり、案外簡単に~の法則

と言う言葉を作ってしまっても問題無くて

フランクに割と好き勝手に~の法則と言っても良いのかもしれない


と、思ったので

何かしら適当に法則でも作るかな

と考えていた


そんな事を考えながら自転車を漕いでいたのだが

最初は確か

女子高生振り向きの法則

とかがよぎった

勝手な憶測だが

異性に対して目を合わせて来る女性は彼氏がいる場合が多いと思う

というのも、彼氏がいる状態だとその女性は自信がついて、他の男性を見る余裕が出来るからだ

つまり、浮気が出来る状態であるほど浮気をすると言う事

だが、逆に彼氏が居ない女性の方がむしろ

異性に対して消極的になり

結果として浮気もしないと言う事

物理的に考えると当たり前の事ではあるが

それだけでは無くて

精神的な問題で

例えば彼氏が居ない状態の女性と言うのは

実は妄想の中では都合良く見え方が変化する完璧な彼氏が居て

その幻想の彼氏に対して一途だから浮気をしない

しかし具体的に形のある彼氏ができると

急に他と比べ始め浮気をする

と言う現象

この法則性で考えると

いわゆる狙い目の女性はフリーでは無くてむしろ彼氏持ちと言う事になるのかもしれない


と、考え、世の中くだらねー

と思いニヤニヤしていた


まぁそれはさておき

こう言った法則は割とありがちで

次はもうちょっとひねった法則を作ろうと思った

何となく、箱をイメージしていて

自転車を降りなくてはならない細い通路を歩いていたら

角の結構手前から来たおばさんが自転車に乗っていて勝手にコケた


だいぶ手前だったので自分は何とも無いけど

しきしりに「すいません!すいません!」

と謝られ

まぁ、何とも言えない微妙な気分になって

「あ、、あぁ、いえ、、」と何とも言えない返事をして通り過ぎたら

今度は整備してたおじさんが

「あぶねぇよな、、」

とボソっと呟き

また微妙な感じで

「あ、、はい、」と返して

通り過ぎた


こう言う、別に何でもないけど

何かもやもやする

形容しがたい事ってあるよなー

と思いニヤニヤしながら自転車を漕いでいて


ようやく、形容の法則

と言う物に気がついた


この、形容の法則と言うのは

形容しがたい物事は審議にかけられやすく

結果として

形容可能な物事ほど形容される確率が高くなると言う法則

言うなれば、法則性の法則だ


この、形容の法則が物理現象なのかを考えると

実験として

何らかの物体が格納可能な箱A

質量や体積等が同等で格納不可能の箱B

それらが同じ条件にさらされた時

Aに物体が格納される確率と

Bに物体が格納されそうになる確率に

何らかの差が出るかどうかを想像した


冷静に考えて、多分差は出ない

パチンコの役物に蓋をした場合と

蓋をしなかった場合との差を調べる様な用量で実験出来ると思うが

役物に到達するまでの条件が同じなら

蓋が有ろうが無かろうが確率は一定と考えるのが普通


しかし、現実ではどうだろう

それが可能である物の方が

その条件も整いやすい傾向にある事は明らかだ

袋があったら、袋が袋として使われる確率は上がる

しかし、これは物理的な法則では無くて

人間と言う、精神を持った存在が確率を操作しているから成り立っている現象と言える


そしてこの可能である物ほどそれを可能にしやすいと言う法則は

人間に限らず、哺乳類~細菌類まで動物全般に言える事だ


動物もある意味では物体なので

物理法則として考えられ無い事も無い

その辺りにそもそもの確率と言う概念の危うさも感じ取れる


数式的な確率とは別に確率の概念を怪しくしている法則

それが形容の法則と言える


生物全般が何故か物事に意味を付けようとする性質があると言う事

それが形容の法則で

~の法則

と言う言葉もこの形容の法則で成り立ち

ありとあらゆる言語は形容の法則によるものと言える


要するに何が言いたいかと言うと

人は何かにつけて物事に意味をつけたがるって事

あらゆる社会現象をまとめると

それが形容の法則だからなのだ

と形容する事が出来る