ペタの哲学部屋

私ペタ(ハンネ)、が哲学を自重せずに展開していくブログです

現代における生贄と供物の性質

現代における生贄と供物の性質


生贄でなく供物を捧げよ

生贄を捧げると悪魔が導く

供物を捧げると天使が導く


捧げる対象は

目に見えないが人に影響を与える概念

信仰、流行や流行病

一般的には経済や細菌類

金の仕組みそのもの

キャッシュフロー

本来目に見えるとは限らない流れ

過去~現在~未来への時間の流れであって

実態が明確に存在してる訳では無い

理論上、いつ経済が崩壊して

金の価値が無くなるかは

正確に測れる性質の物では無い

金を得る為に

又は病を治す為に

供物ではなく

生贄を捧げると不幸になる


生贄の意味は

生きている存在を捧げると言う事

例えば、自分の中で生きている才能や

もっと有意義に時間を使う方法があるにもかかわらず

それと関係無い仕事をし

自分の存在を会社や社会に生贄に捧げると

ストレスが溜まりに溜まり

邪道へ進む


細菌等の話では


元来、神の教えと言うのは単純な物が多く

神社などの由来は

疫病に苦しむ民衆が

その場所にあった水で体を洗ったら偶然

治って

それを知った偉い人が感動して

祠に祀った

意味が解らないけど

その内誰かが理解してくれると言う期待を込めて、とりあえず残しておく

と言う感覚なのだ


この、供物と生贄の違いを

現代的な視点で改めて考えると

悪魔と恐れられていたのは

細菌やウイルス

それに生贄

生きた細胞や動物を与えると疫病はむしろ感染する

だが供物ならば

それが身代わりになってくれる


アレルギー性皮膚炎等に当てはめて考えると

アレルギーは

アナフラキシーショックの一種で

過剰な免疫反応によって引き起こる症状だ

生きた人間だからアレルギーになる

死体や死んだ細胞はアレルギーにならない

細菌類が生きた細胞を捕食するから

その免疫が働くと言う事で

これは生贄に相当する

しかし皮膚の表面にクリーム等を塗っておけば菌類が捕食するのは

生きた皮膚でなく死んだクリームになる

この場合は供物に相当し

皮膚炎の悪化を防ぐ


しかし供物の性質として考慮せねばならないのは、悪くなった物は

ちゃんと取り替える必要があると言う事

お供えの食べ物や水を放置すると

腐ってカラスが寄ってくる

カラスを悪魔の使いに例えると

彼らは生物の処理方法を警告しに来ている

とも取れる


皮膚炎に話を戻し

それと似た様な感覚で

クリームを塗って

痒くなって来たら

直ぐに洗い流して

塗り直した方がいい


ちなみに

化粧水に栄養分が含まれている事があるが

皮膚から栄養を吸収する可能性は

科学的な根拠が低い

だがそれを供物と考えれば

雑菌に少しは良い物食わせてやろう

と言う考え方も出来る

旨い物があったら先にそっちを食って

食われたら困る生きた細胞が見逃される

可能性も考慮できる


流行病ややりたく無い仕事への

供物や生贄の理論は

狭義な物で

この理論は人生全般に適応出来る


子育てもそうだ

子供の生きた意思を

無理矢理塾や学校に行かせる行為は

生贄に相当し不幸な道へ進む

供物とは

くれてやっても構わないような物でなくてはならない

やりたく無い勉強をするにしても

少し位なら問題無いと言う範囲で

捧げ無くてはならない


完全に組織へ身を捧げて

生きる自由を生贄にすると

大抵は邪道に行く


とにかく

何かを得る為に対価を支払うなら

その対価が

捧げても構わない供物か

生贄かと言う判断は怠らない方がいい

暴論又は正論

絶対的に対象的な物質

それを発見したら奇跡だ

それは物質の完全な最小単位なので

その発見は現実そのものを濁し始める


シンメトリー、対称性に対し

アシンメトリー、非対称性がある


欠けてる事

傾き、アシンメトリー


解りかけてる

解り欠けてる


生きている事は

死にかけていると言う事で

死の世界を解りかけていると言う事

かけているから

かけてない部分で生きてる

死の理解を完成させようとすると最終的に死ぬ

焦らなくても必ず死ぬ

だから欠けてる事が大事


それが解れば

そう言う世界観が解る

全部では無いけれど

死なない程度に

死なない範囲で解る


私は

信じると言う行為を信じていない

しんじまうから

そもそもおかしいのが

キリストは最終的に張り付けにされている

結果的に残酷な見せしめにされている

先入観なしで見たら

信じたらダメだよ

と言う意味になる


ドラマSPEC

湯田(ユダ)をとうだと

読ませて馬鹿にしてる

と言うシーンがあるが

同音異義語、冗談

そう言う馬鹿っぽい所に真理がある


マジシャンは何かと意図的にミスをして

笑いを取り

注目を集めて仕掛けを誤魔化したりする

騙しの天才が真理を隠しているとしたら

信じ難い事ほど怪しいし

裏をかいてくるかも知れないし

裏の裏かも知れない

なんせデタラメな部分もある

あれれ?気がつきませんでした?

貴方にたかってたハエは

貴方が尊敬してた偉人ですよ?

とか言ってるかどうかは解らないが

そうで無いとも言い切れない


何が現実か解らなくさせてる

トリックのヒントは

陰陽と無知の知の合わせ技で

光と陰の総称が生きると言う事で

理解と不理解の総称も生きると言う事

ちなみに陰陽師

安倍晴明

せいめい=生命

いんよう=引用

こういうのも怪しい

あべこべな生命ってか?

ようは

解らない事を解らないと認め

悲観しなければいいと言うだけ

心から喜んで見ていれば

マジシャンも喜んで

色んなネタを見せたくなる物

だから解らない事を喜び

感謝すると色々解る


疑問を解消したがってると

マジシャンは

じゃあ基本だけ教えてあげましょう

現実とは

日が昇る事と日が沈む事です

だから初めからそう言ってるじゃないですか

さあさあ

そんな初歩的なトリックよりも

まだまだ素敵な魔法はありますよ?


信じ過ぎる事が良くないのは

マジシャンの手品を信じ過ぎると

マジシャンはただ単純に

楽しませたいだけなのに

崇められたら困ってしまうからだ

信じる者が現れると

信じない者と喧嘩をしだして

マジックショーどころじゃ無くなる


信じる者は救われる

何が?

足元かも知れない

信じる者は足元をすくわれる

と言う意味かもしれない


マジックのタネが案外単純な事と同じで

真理とは

解る事又は解らない事

そのセットと言う事

昼と夜

眠りと覚醒

答えは初めからそこにある

ちなみに

死んだから現実が解る保証はどこにも無い

この世界に嘘つきが沢山いるだけの事で

それは信じ過ぎさせない為かもしれない


生きると言う覚悟を持つと決めた以上

例えばこの現実が

マジックショーだったとしても

最悪の場合、意地でも客席にしがみつく

と言う、態度

魔法、魔術にたいする執念

愛着、愛によって現実にしがみつかねばならない


客席を不当な理由で離れていく客は

止めざるを得ない

ちょっとまって

まだショーは続いてるじゃ無いか


さもなくば客席に一人取り残される羽目になり

客席にしがみつく気力が減っていくからだ


自分に才能が無いとか

劣ってると思わせるのは

マジックショーを成立させる為の

冗談に過ぎない

悲観せずに

それでそれで?

じゃあ仮に馬鹿な自分を騙して

次はどんな魔法を見せてくれるの?

と言う態度で臨み

魔法を眺めていれば

人は必ず賢くなっていく


そもそも賢さとは何か

と言うネタが

矛盾し、ループするトリックになっているだけなのだ


つい考え過ぎて疲れてしまう事があるが


過剰な演出

過剰な興奮が続き過ぎるのも

飽き始める原因になるので

上手いことぼやかして

退屈する時間

休み時間も大事だ

現実はちゃんと

休憩ができる会場になっている

と言う施設の裏方の配慮にも感謝せねば

理解の理解

理解の理解


理解とは気休めだ

では気休めとは何の為にあるか

それは使う必要の無い気を休め

使うべき気を見定め

気の使い方を研ぎ澄ます為にある


気休めをしないと

気が働きっぱなしになる

無駄に働いてる負の感情を休ませてあげる

気休めが大事


筋肉が成長するのは鍛えてる時じゃない

鍛えたのちに休んでいる時だ

鍛えるのはあくまで刺激を与え

筋肉に筋肉の役割を思い出させる為だ


精神も同じで

苦しみは、心の持つ力と

その役割に気づかせる為にある


そして気がついたのちに

理解し、気休めをする事で

精神は研ぎ澄まされて成長する


生きる事はその繰り返しで

苦しみと言う修行よりも

むしろその後の気休めの方が

生き延びると言う事の本番で

ナマケモノがろくに動かずに

消費を最低限にしているのは

むしろ生きる時間を増やす

と言う目的に対して合理的だ


最も合理を追求した生物は

おそらく植物だろう

生き残る事と繁殖する事

環境を有益にする事に対して

あれほど有意義に生きてる生物も無い


だが、弱さと強さは表裏一体

植物やナマケモノ

低燃費且つ生産的

と言う強さは

非破壊的且つ利用される側

と言う弱さでもある


理解させる側の力は

破壊的且つ創造的で

良くすれば偏見や差別、誤ちを壊すが

壊すべき事を間違える事もあるし

壊される事を望む者ばかりでは無く

敵視される事もあるし

勘違いされる事もある


理解する側の力は

受動的且つ非創造的であり

理解してもらいたい

と言う需要は多いが

何を生み出すでも変化させるでも無い


理解させる側は

知恵を売りたい側と言えるが

理解する側は

買いたい側と言え

お客様がいるからこそ

知恵者は知恵に満足出来る


もしかしたら

理解の性質は

格闘技のトーナメント大会のような

仕組みになっていて

勝てば勝つ程

対戦相手に困る事になる様に

理解すればするほどに

理解させ様にも

理解してくれる人が減っていき

淘汰されて行くのかも知れない


理解者不足なのは

生まれてくるのが速すぎたからか?


なんつって


まぁ仮にそれでも切り札がある

それは魔法だ

魔法に理解は必要無い

パフォーマンスの問題だ

まだ表現の世界がある

夢の世界は無限大だ

木とは

木とは


木行とは

植物とは


我々が我々である根源であり

生命の根源である


も類の誕生が分岐し

我々はその発展系として進化した生物だ


では種はどこから来たのだろう

も類はどこから来たのだろう


純粋な疑問と言う種は

愛へ繋がる物でなくてはならない


ーーーーーーーーーーー

風に吹かれて

ボブディラン

超訳、俺


どの位、道を行けば

男と呼ばれるのかな


どの位、海を越えて

鳥は寝るのかな


どの位、弾が飛べば

禁止になるのかな


ようダチ公

風に聞け

答えは風に聞け


どの位、山は山でいられ

海に沈むのかな


どの位、自重をしたら

自由で居れるかな


どの位、確認したら

本物に見えるかな


ようダチ公

風に聞け

答えは風に聞け


どの位、上を向けば

空が見えるかな


どの位、耳がくっついてたら

声は届くのかな


どの位、人を切れば

屍の山に気づくかな


ようダチ公

風に聞け

答えは風に聞け


ようダチ公

風に聞け

答えは風に聞け

悲しい気持ちを解消する方法

悲しい気分を解消する方法


前回同様

そんなものは無い!


と言いたい所だが

これはある

今さっき思いついた


以下の事は感情の問題で

それを具体的な行動にはしない

頭の中でやる事とする


人に見られていない方がいい


意図的に涙を流そうとする

もし本当に涙が出れば

涙特有のストレス発散になる


涙が出てこない場合

どうにかして無理矢理涙を流そうとしてみる

悲しい顔したりして

絞り出そうとしてみる


コツは泣きたい気持ちが凝り固まった時、今度は逆に緩めるため

おーいおいおい

と呟いたり

心の中で

泣いてもいいんだよ〜

さあ泣きなさい〜

となだめてみるのも効果的


本気でやってダメだと

そんなもんか、と言う気持ちになり

試す前より少し気楽に感じる


それでも焦燥感がある場合

今度は怒ってみる

悲しい状態より

怒っている状態の方が幾らか健康で

やる気が出ている状態と言える


この時

何に怒っているか

何に悲しんでいるか

と言う理由はあまり意識しない

涙が出ないのが悔しいから

その事をきっかけに怒る


何らかの理由がある場合も

その事に対して怒りや悲しみの気持ちを

それ以上の水準で

意識的に理不尽に

無理矢理高めようとする


そうすると、

無意識では本当はそんなに怒ったり悲しんだりしていないのに

意識的に本気になっていると

逆に無意識は違和感を感じはじめ意識をなだめる側に回る


怒る気持ちが枯れてきたら

今度は笑おうとしてみる


この時、笑いたく無い時に笑おうすると

少し虚しい気持ちになる


そう言う気持ちを感じたらすぐに

疑問の感情を出し

疑問の表情をしながら繰り返す


にこにこ、、

あれ?

にこにこ

あれ?


最終的に

何してんだ俺


まぁいいかと思った時

楽になる

成功する方法とは

成功する方法とは


成功する方法とは

聖杯である


では聖杯とは何か

そんな物は無い


つまり成功する方法など無いのだ


投資の世界では

絶対に勝てる方法を探す事を

ありもしない物を探す行為として

聖杯探しと揶揄する


では世に出ている成功方法とは一体何なのか

と言う疑問が湧く


それは全て結果論だ

自分の経験を信じたのち成功し

その経験から得た結果が

成功に繋がる方法だと思い込んでいるに過ぎない


では彼らがなぜその様な主張をするのかを考えてみる

それは自信を持っているからだ


自信を持った者が自己主張し

それが通ればその自信が生き残る

その自信を持ったまま

その自信を社会に認められると言う事が

社会的に成功していると言う事で

成功者は

生き残った自信の余力として

活き活きと武勇伝を語る


その武勇伝と言う物は

別に正しい必要は無い

語りとして迫力があり

それを見聞きした人が共感すればその主張が通る


人の試みが成立する確率は

人口の増加と多様性の発達と共に未知数になりカオスになる


人の脳にICチップを埋め込んで

情報を全て送信し

火星くらいの大きさのスーパーコンピュータか何かで計算しないと

その確率統計を出す事は出来ない


では人は何の為に頑張るのか

何の為に自信をつけ

何の為に成長しようとするのか


その理由はいくつかある


第一に、成長する事

自信をつける事が快楽であると言う事


第二に

苦痛を克服する方法の一つが

成長する事である事

成長とは広い意味で適応を含む物とする


第三に

他者の協力を得る方法または内在的な別の側面の自分の力を発揮する方法の一つが自信をつける事であると言う事

自信もまた広い意味で

客観的に自信がなく悲観的で

自分は誰かに助けて貰わなくてはならない人間だ

と言う主張も自信と考える


第四に

全く頑張る事が無い状態は

退屈でそれが苦痛になり

第二の理由の適応として

あえて自分が弱体化する場所へ行き

挑戦をする事


人はこの様な段階の何処かにに属し

抜け出したり

抜け出せなくなったりを繰り返している


例えば

続ける事が大事と言う教訓は

適応したフィールドに止まれば安全で

苦しみの段階に進まなくて済む

と言う消極的な意味も含まれているし


井の中の蛙大海を知らず

と言う諺や

少年よ大志を抱け

と言う教えは

安住の地に止まる退屈と言う苦痛から

逃れ

別の選択肢へ挑戦した者の主張だが

大海だと思っている海は

もしかしたら川かもしれないし

そうでなくとも宇宙はもっと広い


ただ、成功する方法は無くとも

成功する事はあるし

成功が続く事もある


要するに、広い意味で成功とは

捉え方と偶然の産物なのだ


捉え方次第では

今まさに成功していると言う事に出来るし

それを失敗と呼ぶ事も出来る


何をしたら何が起こるのか

と言う定石に完全な正解は無い

ただ、

自動販売機に金を入れボタンを押すと

ジュースが出てくる位

当たり前の仕組みもある

もしゴリラがその仕組みを知ったら

そのゴリラは偉そうにするだろう

そしてその方法が出回るか

そのゴリラが飽きたら

今度は別の事を始めるはずだ


そんなこんなで競争社会

と言う物は回っている


自動販売機の仕組みを理解したゴリラの様に

世間の水準を超える仕組みを理解した人間が居たとして

そんな人は今度は宇宙人に頭を撫でられる事になるのかもしれない


まぁ、人間にとってゴリラは怖いから

宇宙人にとっての人間も怖い生き物だと思うけど


それはそうとトラとか平気で飼ってる

タイとかの修行僧はすげぇ

因果関係の真意

因果関係の真意


因果応報は

点でなく線で起こる

そして線が無数にある以上

因果関係と言う概念自体が虚構になる


不平不満とは

平等でない事への不満であり

因果応報がそもそも機能しない線に居る事

への嘆きだ


個人その物と境遇を含め環境と仮定して

場の法則を線と例えると

平等に機能する線と

機能しない線とがある


原因を点で見た場合

因果応報、原因に見合った結果は返って来ない


例えば水を作る力を持ったABが居たとする

山に居るABと同じ様に水を出すが

川に居るBよりもずっと多く報酬が手に入る


BAの存在を知ったとしたら

自然な流れとしてBは不平不満を言うだろう


一人一人の人生その物を環境と考えた場合

因果応報の真意は崩壊する


原因と結果の法則と言うのは

客観的に明らかな再現性のある反応において適応出来る


人は境遇や環境の差異がバラバラである以上

同じ実験結果にはならないと言える


薬品Aと薬品Bを混ぜると危険な事が

充分な再現性で明らかだった場合でも

それを知る事が出来たかどうか

と言う差異は発生するし

あるいは偶々その危険性を中和させる

薬品Cが散らかっているかもしれない


何かしらの結果があったとして

その原因を探す場合

原因は自分が何かをした

と言う場合だけでなく

周りに散らばっていて

自分ではどうしようもない事がある


だから当然、望ましい結果を得られず

その原因が環境にある以上

不平不満を言い

自分が望む結果が得られる条件を望む


だが、自然界は元々不平等な事が当たり前

そして人間は一部の人種が平等に暮らせる様に他の種族を差別し

限られた範囲での平等を手に入れてきた


動物が人間に対して不平不満を言い

デモ活動をしているかどうかは知らないが

人種や境遇の違いによる不平不満は確実に出ている


そもそも、平等や不平等とは何かを考えた時


例えばボクシングで

一人だけ木刀を使う事が許されていたら

明らかに不平等だ


ボクシングにはボクシングのルールがあって

細かい技術等ある程度の不平等は仕方がないが

ある程度平等な中で戦う事に

どちらが勝つのか?と言う

実験としての価値がある


賭け事で考えても

オッズがかけ離れすぎていたら

賭けは成立しない

野球投手が投げる球と

銃弾のどちらが速いか

と言う賭けをしたら

銃弾のオッズは1倍で

投手に賭ける金は寄付金になる


人々の人生を豊かにしたいと思った場合

どっちに転ぶか解らない

ある程度オッズが均等になる

平等な居場所、カジノが必要になる


では、具体的にどの様な居場所が

足りないのだろうか?

と言う話しをした場合

発生してしまう矛盾がある


それは

要求を持って居るのは少数派で

決定権を持って居るのが多数派である

と言うロジックだ


選挙なんて多数派のお祭り事だ!

なんの意味も無い!

と叫んだとある都知事候補者を知ってるが

確かにその通りなのだ


格闘ゲーム

ギルティギアシリーズで

絶対確定世界

なる概念が登場するが

これはもしかしたら

因果応報が必ずノイズ無しで確定する

と言う空想の世界なのかも知れない


まぁ、全世界を完全平等にする等と

大それた事を望まなくても

何かしら

平等に戦い、相応しい報酬や結果が得られる場所は多くて解りやすい方がいいし

扉も入りやすい方がいい


その点スマホゲー等で見られる

無課金制と言う発想は素晴らしい

結局は課金した方が強くなれるとか

得られる報酬が虚構だったりする点は不満だが

文化繁栄のシミュレーションとしては

面白い試みかも知れない


後はもっとリアルな空間で

無課金制の神ゲー見たいな場所が増えればいい

例えば極論を言えば

ホームレスでも演説や演奏が面白ければ

チップを稼げる会場とか



結果的に勝ち組になれれば

不平不満も減るので

個人的には上手い事行けばいいが


負け組として不平不満がある以上

平等や倫理について考え

発言する事を課せられて居る