ペタの哲学部屋

私ペタ(ハンネ)、が哲学を自重せずに展開していくブログです

断捨離は浅い

断捨離は浅い


代謝物の排除で上がるのは

商品価値だけだ

自然は代謝物の循環で成り立ち

人にとって都合の悪い

建物に発生する苔や雑草は

刈り取られなければ調和を始め

美しい環境を作り出す

捨てる神や拾う神と言うが

人を神と思う事は度が過ぎている

拾う神としてゴミ屋敷に住む必要も無いし

捨てる神として捨て続ける必要も無い

人は神では無いので対応力に限界がある

しかし対応できる範囲では

まるで神や自然界の様に循環させる事が

出来る

都合の悪い物を排除し

欲しい物だけを得ようとしたら

動物以下の存在になる

つまりガンだ

増え続ける事により

身勝手で地球を破壊するだけの

悪性細胞に成り下がり

さらに他人に影響力を与え増殖していく


重要なのは得る事でも捨てる事でも無い

循環の法則を理解していき

風通しを良くして行く事だ

「べき論」VS「めんどくさい」

 

人間は誰しも何かしら良い変化を求めている
仮に生活のあらゆる部分に満足していたとしても
明日は雨より晴れたほうがいいとか

もうちょっと楽したいとか頑張れるようになりたいとか
願望の大小はあれど人生を変えたい、というのは誰しも思う事だろう

 

人生を変えるという事を具体的に考えると
習慣を変えるという事になる

 

ただ、あれがいいからこうしろとか
部屋は綺麗にしとけ、金は稼いでおけ
身だしなみを整えろ、愛想よくしとけ
等と誰かに言われたとしても

大抵はめんどくさい

と思うだろう


けれどもし

よほど面倒見がいい人と常に生活していれば
そういった習慣も身につくかもしれないし
それこそ軍隊か何かに入って叩き込まれれば
身にはつくだろう

 

これは
他人や社会から来る拘束力というのが
個人の意志より強力だという例とも言える

 

だから自衛隊に入れ、と言われたとして
大抵の人は、「嫌だよ、しんどいから」
と思うだろう
しかし、実際入れば、恐怖心や信用の持つ力に支配され
嫌でも上官の言う事を聞くようになる

 

さて、では、自分で自分をコントロールする事を考えた時
自分に軍隊の上官並みの支配力があると思えるだろうか

よっぽど意志が強くストイックでなければ
基本的に人は自分に甘いはずだ

例えば、自分の分身を育てていると考えた時
どうやって幸せな人生を歩ませるだろうか

 

その一つのやり方として、上記のような支配力を行使する
というやり方もあるが、他のやり方もあって
スパルタ教育だけが教育でない事は
自分をコントロールする事でも同じだ

 

自分に支配力を行使する場合、エネルギーの衝突が生まれる
実行しろ!と自分を叩くエネルギーに対して
嫌だ!めんどくさい!というエネルギーがぶつかり合う
行動力と「めんどくさい」の対決がどちらに傾くかは力の大きさ次第だが
対立してる分時間の無駄とも言える

 

仕事の頼み方にも色々あって
受け入れてくれるように工夫したり
報酬を増やしたり、もっとやりやすい仕事を提案する事がある

自分という部下を上手く導く
上司としてのノウハウも確かに大事だ

 

だが、もっと大事な事がある
それは会社の仕組みと部下の生命力だ

 

ちなみに経営はあくまで例えで、
これは個人の人生におけるセルフコントロールの話だ

 

仕組みの部分としては
生活を見直してみて、食器洗いに精神力をそがれているなら
いっその事洗浄機を買ってしまう
靴が磨り減っているのなら、歩きやすい物に変える
、等、コストを支払う事によって効率化を図る手段といえる

 

そしてそのコストそのものが生命力と言える
お金を使うと手っ取り早いのは
お金を使う事によって、他人の生命力を利用できるからだ
、なので財力も行動コストとして使える生命力の一部と考える事ができる

 

元気があれば何でも出来る
とはよく言ったもので、頭の善し悪しや金のあるなしに限らず
気力と体力があふれていれば、ごり押しで大抵の事はできる

 

気力の上げ方は、それこそ魔法みたいな物で
やる気が出てくるような事を言葉や儀式でやればいい
このブログでは今更な気がするので、今回は特筆しない

 

気力を上げる時、無尽蔵に力が溢れてくるように錯覚するが
冷静に考えるとそんな事は無いだろう

 

人は内蔵してるカロリーを消化する時
臓器を働かせている
そしてそんな臓器の大抵は神経が通っていない
臓器からエネルギーが脳に送られてくる場合
よく解らないけど、どこからとも無く力が沸いて来る
と思うのは
つまり脳と直接繋がっていないので臓器の疲労に気がつかないのだろう

 

ようするに、テクニックを用いて
気力を底上げしすぎると
それだけ臓器にかかる負担が増えてしまう
人は考え方しだいで、過労死するくらい気力を上げられるという事だ

 

そういった事を踏まえると
今度は、頑張りすぎは良くない
という結論に結びつく


行動力の対として内側から沸いて来る「めんどくさい」
という感情は、生命維持のための感情で
ある程度正しいと考えられる

 

では、人は本当に「めんどくさい」
とばかり考える生き物なのだろうか

 

それは違う、人は力を持て余すと退屈する生き物だ

 

最終的に結論として
習慣を改善し自ら人生を豊かにする為に最も効果的なのは
「退屈するくらい元気になる」
という事だ

 

単純なこの結論に至るまで右往左往した事にも意味があって
あれをしなきゃ、これをしなきゃ
どうすればいいんだろう、何が正解なんだろう
という悩みを消化できた事だ

 

「べき論」VS「めんどくさい」
という戦いのルールを見直した事によって
優先すべき感情をより公平に審判ができるようになった

そうする事によって無駄な衝突を避け
思いっきりだらけたり
頑張ったりと切り替える事が出来る

この文章自体がそんな居合い術のような技術の確認ともいえる

 

勇気VS~勇気VS~~

意地♪

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サボる勇気!、、がんばる意地!!

的な?

余命宣告された人への提案

こんにちは

私は今別に余命宣告されてない健康体ですが

ただ何と無く空想にふける癖があるので

余命宣告されて、やってみたい事は何か

協力させてくれ、と言ってくれる人がいたとしたら何を望むかを考えた

中々いいアイデアだと思うので

もし切羽詰まった人が読んだとしたら参考にして頂きたい


以下がその内容


もしも死ぬ運命が近づいてきたら

例えばガンだとしたら辛くてリスクが大きい抗がん剤治療をするよりはモルヒネを打ちたい

そしてもし協力者がいて自分の提案を受け入れてくれるのなら

自分の人生を濃くする為の計画を実行してほしい

その計画とは

まず、自分が誰かと会う、あるいは連れてきて貰う、そして遊ぶなどして親睦を深め

自分がその人を信頼したとする

それが第一段階で

信頼の印として計画をその人に伝える

計画の第二段階は単純で

信頼してくれるなら

その証としてハグして貰うと言うもの

そして次の段階として

ハグして貰える友人が増えたら

今度は友人を集め友人同士で親睦を深め

また計画の二段階にループし

積極的な人はその人の友人も連れてきて貰う

この作業を効率良く実行すれば

手っ取り早く良い人生の集大成が出来上がり

後世に素晴らしい贈り物も出来る

宮本武蔵になりたくない

 

五輪書の解説本を少し立ち読みした
そしてその一部分だけ読んで
今この本は読みたくない、と思った

ざっくりとどう言う内容かと言うと


武蔵曰く兵法は勝つ為にある
そして出世する為にある
その為には他者より優れた部分を示す必要があり
自称武芸者が大道芸をするのは生兵法は大怪我の元だ
と言った考え

 

宮本武蔵と言えば英雄視されがちとは言え
はっきり言って殺人鬼だ

吉岡道場の50人対一人で勝ったと言う伝説があるが
要は道場稽古の偽物の剣術では
本当に人を殺し続けた狂人に敵わない
と言う事

 

さて、では本当に宮本武蔵はただの殺人鬼だったのだろうか?

この世には「ただの」殺人鬼は居ない
衣食住、人間的な部分も当然ある

 

彼は仏像を掘った
その辺りに人間性を感じる

 

何故仏像を掘ったのかは容易に想像がつく
、それは罪を償う為の儀式だ

 

彼は大量殺人を行い
その罪悪感から逃れる為に仏像を掘った
しかし実際、仏像を掘った所で
当然、死者が報われるわけでは無い

 

映画「皆さま、ごきげんよう
に出てくるシーンで
戦争で散々好き勝手悪事を働いた兵士達が
キリストの洗礼の儀式で罪を償い
平然としている描写があって
信仰心を痛烈に風刺していた

 

祈って水かぶってハイオッケー
なんて事ある訳がない
ごめんね!で済むような罪じゃない

 

それでも儀式には罪悪感から心を解放する力がある、事実とは別に
本人の心は確かに安らぐのだ

 

それと似たような理由で
宮本武蔵は仏像を掘った
罪悪感が苦しくて仕方がないからだ

 

しかし木で出来た仏像が幾ら増えた所で
死んだ人は生き返らない
仮にクローンとして再生した所で
罪は消えない

 

儀式には罪を償う力がある

宮本武蔵になりたくないと思ったけれど
その逆にはなりたいと思った

 

要するに、罪を償う儀式をしたいと思った

 

実は文化には大きな罪がある


身勝手な都合の押し付け合いで手に入れた金を使って、虐殺され続ける家畜の肉を楽して食い続ける事は明らかな罪だ

 

自然の理として、飢えに苦しむ獣は
必死に獲物を狩り、
命を繋ぐ事に全力で生きる

 

しかし文化に生きる人間はとても卑怯者なので楽をしている

けれどいくら罪深いからと言って
本当に文化を破壊したいわけでは無い

 

願望は実現すると言われているが
創作物は本当に実現してしまわない為の
儀式として扱われる事がある

取りあえず演技で済ませる
それが儀式だ

 

そして私が思うに
文化的な罪を償う儀式が
格闘技だと思っている

 

人間は動物だ、卑怯に生きる事が正義では無い、動物としての闘争本能を思い出せ
、金や権力、地位など紛い物で生きる為には拳で語るしかない、と言う事を表現する儀式だと思っている

 

儀式は偽物だからいい
現実化してしまうとより多くの罪を重ねてしまう

地球や人類が滅亡するドラマは
滅亡してほしい欲望が
偽物で解消されるから意味がある

願望を実現させない為にも
儀式は必要なのだ

 

窮屈と劣等感の意味

抑圧される事も悪い事ばかりではない

火薬を濃縮させた花火がより広く輝く様に

来たるべき時にはより多くの解放感を得る事が出来る

盛者必衰は世の常なれど

闇は光に光は闇に変わる

力の方向が負であれ正であれ

力は何かを経験し

必ず報われる

何かが何かに変わる為に

無駄な事などなにも無く

全てが動に至る礎である静を潜めている

永遠に続く幸せもなければ

永遠に続く不幸もない

全ては全てなので

一つの物も力も無い

人は優劣を気にし

他者に劣等感を押し付る

けれどもそれを受け取る人には

その人がその人として生き

その場所に居たから感じれる感性がある

誰一人として同じ人生を歩む事など出来ず

その場所に生き

その場所で感じる

その方向に進む力である事に誇りを持つ事が出来る


In to the wild


この記事は映画評論であると共に

自分の人生観も表す


In to the wild

この映画、結論からして

私はこの映画が大好きだ

ざっくりと説明するとヒッピーが旅をする映画なのだが

ヒッピー的な雰囲気が大好きだ

荒野、インディアン、鷹、大地、自然

サバイバルナイフ、強さ、野生、試練

精霊、そして何よりも、自由


そんなエッセンスがたっぷり詰まった映画だ

ネタバレしてしまって恐縮だが

この主人公は旅の果てに死ぬ

その点がこの映画の最大の醍醐味だと思う

ネタバレしたからといってつまらなくなる話なんてものは安い手品みたいな物だ

エンターテイメントは種明かしとは関係無く心を震わせる


自由、本当の自由を求めて主人公は旅をする

手垢のついた金や物の価値観では無い

自然に回帰する事によって得られる

誇り高く、苦しく、余りにも眩しい自由


そしてその自由を求めるあまり

主人公は飢えて死ぬ

心配に苦しむ家族を残して

自由を求め続けた先にある物

究極の自由は死を表している

と言うのがこの映画の最大の教訓だ


何者にも邪魔されない究極の快感と共に

夜に訪れる究極の孤独

彼は様々な素敵な経験を積むが

最大の不幸として

それを分かち合う人が居なかった


自分は割と放浪癖のような節がある

かなり親を泣かした

当たり前、と言うの概念に不服を感じ

徹底的に刃向かうタイプの人間だったので

何かと苦労をかけて来た


何かとすったもんだした結果

私は彼の様に自然に回帰する事を望んだが

辞めた

普通に寒いし、普通に腹減るし

ここ日本だし

そこで学んだ事は、別に甘えてもいい

と言う事

完全に自立した人間はもはや人じゃない

社会人は皆何かしら甘い汁をすすっている

だから日本人は日本に居たら自然に帰れない

色々と頑張ってみる

欲しくも無い苦しみをただただ買ってみる

そうして解る事は人は弱い生き物だと言う事


弱さに甘える人間は醜い

けれどもどんなに頑張っても人は人

弱く醜い蛭のような生き物


だけど強くなろうとする事は出来る

そして少しづつなら強くなれる

強さとは何か

それは人には解らない

何故なら人は弱いから


強さとは

ただ求め続ける光の事だ

その姿勢を強さと呼ぶ

卑怯に甘い汁をすすり肥る事では無い


しかし、その先にある物は

孤独な死だ


映画は映画だからいい

究極を求めて本当に究極になったら虚しいだけだ


自分はどこか文明的な冷たさに孤立感を感じる物の

文明の汁を啜れる環境をある程度良かったと思う

人の為に料理を作るのは楽しい

食材の素晴らしさを伝える為に工夫して

多少は食の有難さに気がついてもらえるからだ

しかし何かとケチをつけたがるだけの文化中毒者がそれを比較の道具にしてしまう

だからただ料理を作ればいいとも限らない

しかし堅苦しい事を言わず食卓を盛り上げる事も真の料理人と言えるのかもしれない


ただ一つ言いたい事は

誇り高き者を侮辱するのは辞めるべきだと言う事

努力をする人、強く生きる命

美しい自然

儚い心


解らない人には解らない

解ったなら次に進めばいい


汚れの無いまま生きていくのは難しい

けれどもその汚れは洗える

手遅れで純粋を汚す狂人になる前に

人は気高さを取り戻さないといけない

ホルモンと健康

今日目が覚めて、なんとなくやる気が無く
才能が発揮しきれない状態を感じた

 

感覚的な事だけど、なんというか 
何かが自分の脳や体の機能にストッパーをかけていると思った

 

そして抑制ホルモンについて調べてみると
ソマトスタチンというホルモンを見つけた

 

これからホルモンについて説明するが一応
一般人による私見で考察した事なので保証は出来ない

断っておく

 

 

ソマトスタチンが抑制するホルモンは
成長ホルモン、インスリン、グルカゴン、腸からの栄養消化


発生する場所は、脳の視床下部
すい臓 、消化管

すい臓にはランゲルハンス島と呼ばれる
細胞の集まりがある、そこにある細胞の一部がこのホルモンを放出している
丁度島みたいに様々な種類の細胞が存在していて
それぞれが共存関係になっている

つまり、インスリンが出すぎた時、グルカゴンが出すぎた時
それを抑制するために出てくるホルモンがソマトスタチン

 

成長ホルモンなんかも抑制するから、邪魔なホルモンなのかと思いそうになるけど
そういう事でもないようで

 

 

まずは、インスリンとグルカゴンの役割について説明する

インスリンもグルカゴンも血糖値を調整するホルモンだ

インスリンは血糖値を下げ
グルカゴンは血糖値を上げる

 

 

低インスリンダイエットという物がある
インスリンを摂取するダイエットと勘違いしやすいが
インスリンの上昇を抑えるダイエットの事だ
つまり、インスリンをあまり出さないようにする事がダイエットに繋がる
という原理だ

 

インスリンが増えると脂肪が増えやすく
脂肪が燃焼しにくくなる

しかしだからインスリンは悪者だ、と考えてしまうのは浅はかなようだ

 

 

そもそも、なぜインスリンが増えると脂肪がつきやすくなるのか
という事について

インスリンは血糖値を調整する為にある
血糖値が急激に上昇した場合発生して血糖値を下げる
血糖値が高い状態というのは血液がドロドロしていて
詰まらせる危険性があるため、インスリンによって血中の糖分を消化しようとする
血中の糖分を優先的に使うから、

結果として、体脂肪が燃焼しない

 

つまり、太る原因はインスリンではなく
上がりすぎた血糖値だ

 

では、今度は血糖値を下げたとしよう
体温の上昇、運動、糖分の摂取を控える等の行動を取ると
血糖値が下がる
そうすると今度はグルカゴンが分泌される

 

グルカゴンが脂肪燃焼を助け、脂肪を分解し
血糖値を上げる、 
なのでグルカゴンが分泌すると結果的に痩せる

ただ、グルカゴンが出まくればいいのか、というと
そうではない、
体脂肪を分解して血液に送り込んでいるのだが
もし、体脂肪を分解し続け、血液に送りまくると
また今度は血糖値のバランスが崩れる

 

 

つまり、
インスリンが出すぎると脂肪を溜め込み常に糖分を必要とする状態になり
グルカゴンが出すぎると血液がドロドロになって危ない、多分運動能力も下がる

 

 

そしてそれらを抑制するのがソマトスタチン
ソマトスタチンは成長ホルモンも抑制するので
分泌しなければしないでヤバイけど
なんかやる気が無くなる

 

 

丁度おせっかいな警察官みたいなホルモンだ

ソマトスタチン先輩が仕事をしなくて済むようにするには
血糖値のバランスを自らが取るという事

 

だからインスリンもグルカゴンも分泌しすぎないように
適度に血糖値を上げ、適度に血糖値を下げ

意識的にバランスを取ればいい

 


激しい運動で血糖値が下がるので
運動後はバナナ等のおやつを食べる

 

ここまで来れたらバナナをやる!

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急激な過食が血糖値を上げるので
ゆっくり噛んで食べる

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というのが結論