ペタの哲学部屋

私ペタ(ハンネ)、が哲学を自重せずに展開していくブログです

良い技は心を良くする


人間は心技体が連動しているので

当然

逆に体が良ければ技が良くなり

技が良ければ心も良くなる


とりあえず、直ぐ体を良くしようとしても

目覚ましい効果はあまりない

というか、体は遺伝や環境に左右されているから、自分の技無しで体にアプローチするのは

他人の意思でしかない


だから体→技

というアプローチは他人へ使う場合のみ使える


しかし技を使えば体も変えられる


自らが問題を解決するには

技と心を考える必要がある


心→技、技→心

ここの部分は自らの意思で逆行可能


マッサージや手術

かゆい所に手が届かない場合は

他人の力が必要だが


鍛錬、自らが成長していくという行為は

自らの意思力が重要になる


人は基本的に他人に教わるより

自分で覚えたほうが効率よく成長する


ベストキッド、という面白い映画があって

初期は3部作で

ジャッキーチェンとブルースウィルスの息子が主演のリメイク作品がある


師匠のミヤギが弟子のダニエルに教える内容は一貫していて

それは日常動作の所作だ


雑巾で床掃除をひたすら続けさせ

左右の手の回転がそのまま受けの型になっている、というシーンがあって

ジャッキー版では服を効率よく服掛けに掛ける稽古をする


この、動作の効率化をひたすら鍛錬する事が

技を鍛えるいい方法で


長い事やっていると、自然と楽したくなる

だからもっといい方法が自然と思いつく

ただ、それを修行と受け止めているかどうかがそもそもの問題で

雑巾を使って効率化を図るから

技が磨かれていく

ここで掃除機を使ってしまうと自身が成長するチャンスが損なわれてしまう


やってみれば解るが

どうでもいい事でも効率化し

素早くこなせるようになるのは心地がいい


丁度いい例えが浮かばなくて恐縮だが


例えば

トランプの束をシャッフルして

その中かはダイヤのエースを見つけて

場に出し

またシャッフルする


それをひたすら繰り返し

素早く出来るようになってくると

楽しくなってくる


この、何気ない感覚を得れるように物事を続けると技を覚えるのが得意になってくる


なので一見大して意義が無いように思えても

スキルを習得するスキル

というのが鍛えられると

選択肢が広がり

その分自由になれる


このスキルは言うなれば

雛鳥が覚えるべき飛び方のような物

そして飛べるようになれば

いつまでも巣に居る必要はない


ただこの世には学べる事があまりにも多いので止まり木は無数にある

飛び立ち、何処に行くのかは個人が決める事だが、

飛び方を知っている人は

最低限誰かに伝える必要がある


そんな感じだから書いた

重力について

力を本能的な観点として見ると
それが畏怖の対象であるか、と言う基準で判断できる

 

よって
重力はそれが畏怖の対象であるからして力と言える

重力の仕組みとしては、一説として巨大な物体が移動する事によって
空間に歪みが発生する、というのを聞いた事がある

一見意味不明なその事を解りやすく想像してみると
スネ毛を抜いた時の事を考えるといいかもしれない

 

スネ毛が地球で、周りの肉が空間とする

スネ毛である地球は移動しているので、空間である肉は
スネ毛を抜いた時一緒に盛り上がる

 

スネ毛と肉の間には摩擦力が生じ、
スネ毛を抜いた時周りの肉は引っ張られ
毛と一緒に体液や皮脂をつれて来る

 

巨大な物体である地球が移動する、というのはそれのスケールがでかく
なったようなもので、
私たちは地球というスネ毛にくっついた雑菌みたいな物だ

巨大な船が移動すると波が起こって、近くにいるとちょっと引っ張られる
そんな感じだと思う

 

諸説あるので正確ではないが
多分そんな感じの原理なのだと思う

 

まあ、それたが、そういう話が本題というわけではない
着目しているのは重力が恐怖の対象であるという事

基本的に人間は高い所が怖い
けれども赤ちゃんは高い高いすると喜ぶ

高所恐怖は後天的な物と考えられる。
生れてきて、あらゆる力に触れ人は学習していく
そして、もっとも身近にある力というのが重力

 

体重が増えてきて、転んで痛い思いをして
食器を落として、と重力の性質を学習していくにつれ
やがて、それが時として危険な力になるという事に気がついていく

高い所が好き、というのは重力の脅威を知らないか
あるいは恐怖を克服し、純粋な感覚を味わっているからなのだろう

 

五行説の土生金、土の中から鉱物を採掘できる
これに、土に経験、金に信用 を当てはめると 
*(土は生物や物質の残骸、役目を終え形が崩れた物)

経験が信用を生む、といえ、物事には陰陽、正負がある

 

重力の影響で受けた痛みの経験が、高所に対する恐怖を生み
それを克服する手段の命綱や受身、トランポリン等が、高所を克服する信用を生む

 

それはそうとして、重力は大抵の人間が共通して感じている力だ
だから集団心理の投影であるFXのチャートにも多分重力が影響している
具体的に意識していなくても、高い所から落ちるのが怖い
そんな無意識が共通していると思う

ドル円で考えた時
反転チャートを見る人はあまりいないとして
ドルが買われるとチャートが上昇していく

ドルが買われすぎる、というのは日本人にとって脅威だ
日本円の価値が下がるので、アメリカ産の商品が高くなる
だからそういうイメージを持たせやすくする
という大衆を誘導するトリックがあるのかもしれない

勿論、アメリカ側から見た場合、反転チャートを使わなければ
逆の現象が起きている

とはいえ、別にFXでドルを買ったから日本が不利になる
という事とも思えない
利益を出せば、アメリカの金が日本円に変わり
その金を使うと日本が少し優位になる

紙幣は発行すれば出てくるが、海外と比べ
そのバランスを取るには取引をするしかない

国と国が主張し、欲しているのはその国の優位性
はやい話、戦争は強盗みたいな物で
いっその事全部くれてやればいい(全部は多すぎるか、、

この金は自分達の物だ!お前達には渡さないぞ!
という、貧困な意識が、国を貧困にさせているのだ

と、まあ
人の振り見て我が振り治せ
裕福な意識を育み、私も実際に稼げるよう頑張らねば

 

最後に
金は信用、つまりは宗教
宗教ってのは怖い部分もあって金もそう
でも困った事に金という宗教は力が強すぎて従わない事には生き難い

紙様が神様だからその力を理解し使う側になる事が
経済国での一つの自由と言える
育ちの格差ってのは確かにあって厳しいけど
意識を変えていけば何とかなると思う
思いたい
初めから経済的に自由な権力者もいるけど
自由というのは勝ち取れる物

五行的に金の力ってのは1/5の力で
昨今の世の中金に傾きすぎじゃね?って思うけど
文句を言っても仕方が無い

 

続・愛とはいったい

五行思想、火剋金を元に話しを進める


自然界の摂理として火剋金とは火が金属を溶かす、ざっくりと火は金に勝つ

と言う意味


私が五行思想に興味をもって

考察している理由は五行思想心理的、科学的な意味を見出した時あらゆる事が説明できる

と気がついたからです


火を何かに例えた時、金を何かを例えた時

その説明が出来る

そしてその理論が理にかなっていれば理解が出来る

言うなれば五行思想の五芒星は物差しのような物だ


琢磨されていった思想で

改めて木火土金水をより原理的に当てはめると

木、豊かさ、多様性

火、仮に愛とする

土、経験、空間

金、信用、時間

水、反応、融合


万物の真理を表している図式なので

読み解いて行くとスケールがデカい話しになる


金の力は信用の力、信用とは突き詰めると時間、土生金、土が金を生み出す

信用は経験から生まれ

時間は経験と空間から生まれる


心は時間の移動が可能

だから予測が可能で過去や未来に浸る事が出来る

心の根本欲求である愛

言うなれば愛とは命の元

生物は皆愛着によって発生している

自分の命とは直接関係ない未来の子孫を残すと言う事自体

愛が時間と言う概念を凌駕している事を証明している


しかし水剋火

水は火を消す

水は柔軟性があり変化しやすく融合しやすい

食事、食べ物は水と考える事ができ

カロリーや栄養と融合していると言える

なので食欲は性欲より強い

結局は他人の命より餓死しない為の食事が大事


なのでとりあえず食べていける事が前提の話しだが


人間が本当に求めている事は

金でも信用でもなく愛


時間軸を移動してまでも人は愛を求めている


より良い未来を思う事

それが愛

情熱と捉える事もでき

火は光と熱を放ち拡散する現象

物事の始まりを表していて

空間が創生される瞬間は火が発生していたのかもしれない


暗い道を照らす道しるべであり

共有可能な暖かさであり

そして生物を滅ぼす業火にもなり得る


時間と信用を削ってでも欲する物の正体が愛

火は木によって生まれる

つまり多様性によって愛が発生する


愛は多様性の獲得を目的としているとも取れる、人は自分に無い物を持つ者を求めやすい

それは多様性を獲得すると言う使命感からなる

多様性が増えた現代では

その使命感に沿った関係を見出すのは難しくなっている


しかし心に火を灯し

足元を照らし、暗い道でも

進んでいけば、きっと

明るい未来にたどり着ける

その未来を信じたい

時間と空間の人生力学

今週のお題「私の沼」

←時間と空間



間違った判断の連鎖が人を不幸にする


力とは時間と空間の相互作用であり


心技体における体は心が入る場と言え

空間は常に不平等なので

体は人それぞれ不平等だが

それを心と技を持ってしてどう扱うか

というのが生きる者の課題と言える


心とは、極論すると、時間と空間を認知する能力と言え

技とは、地の利と時の利を活かす事と言える


配られたカードの地の利と時の利を正しく判断し連鎖させて行く事が幸福な未来を生み

判断を誤り連鎖して行くと不幸な未来になる

なので人類が忌むべき悪は差別と言える


差別とは不公平な判断の事で

老人や障害者を必要以上に甘やかせるのも差別だ

同じ量の努力をしていても評価されない人間もいるし

人生辛い事があるのは誰でも同じだ

問題は肉体と言う地の利の使い方が妥当であるかどうか


弱者を必要以上に甘やかせると言う行為は

弱者から学びと成長の機会を奪い取る事でもある、犬を飼ったとして、食欲が強いからと言って太らせ、出来が悪いからと言って芸を教えないのは

健康で、学習し成長して行く喜びを教えない事になる


また、ルックスが悪いからと言って

その惰弱性を主張し、結果大して努力もせずにモテている人がいるとしてそれは

明らかに不公平だ

判断力が低下し考える力を失ってしまうせいで悪い物を優遇してしまうと言う例は多い


勿論ルックスがいいからと言って性格が悪い人がモテるのも不公平だ


間違った判断の連鎖が不幸を呼び込む

なので判断を怠るとどんどん未来は悪い方向に向かってしまう


もし上記の不公平な判断を続けた場合

どうなるかというと

性格とルックスの悪い人間が増えると言う事だ


人類が成長するためには

地の利が悪いのなら、時の利の使い方に着目せねばならない

それは配られたカードの使い方に着目すると言う事、モグラが海に飛び込んで鮫が強いから不公平だと喚くのならそのモグラが悪い


モグラにはモグラなりの優れた利があるのだから、それを最大限生かして行く

というのが正しい


けれどもモグラは海に行ってはいけないのか

と言うとそうではない

頑張れば案外泳げるかもしれない

そうしたければそうすればいい

ただし鮫に食われた所で文句は言えない

海には海のルールがあるからだ

海に飛び込むモグラはその事を理解しなくてはなら無い

そして理解し克服する事が出来れば

水陸両用のモグラが誕生し

モグラの株が上がるかもしれない

モグラが海に飛び込むからと行って

モグラの為に海のルールを変える必要はない

優しさがあるのなら、本当に助けが必要な時、必要なだけ助けるべきだ


武器を持つ、と言うのが地の利だとして

銃弾が打たれる場所に居ない、銃弾を避ける

と言うのが時の利と言える


地の利が悪くても時の利で補う事は可能なのだ


また、人それぞれが都合と言うものがあり

それは人それぞれの地の利と時の利の事で

時間の都合、場所の都合がある

正しい審判とはそれぞれの都合が最もスムーズでバランスが良い形を取る事と言えよう



最後に、概念を二極化した時、空間と時間に別れるが

肉体は時間軸を一定の速度でしか移動出来ないが、心は過去にも未来にも行ける

時間と空間の概念を完全に理解すれば

ワープやタイムトラベルすら可能になるのかもしれ無い

仮に空間が存在しない虚無空間に時間が存在するのかどうか

物体が変化しない事には時間を説明する事が出来ないが確かめない事には変化を自覚出来ない、認知する対象が無い場合その空間は本当に存在するのと言えるのか

考え深い事は無限にあって

考える事が出来る事に感謝したい

生き抜く為の息抜き


Twitterで頭のいい人と悪い人の違い

と言う話題で波紋を呼んでるのを見かけました

リンゴを見てただリンゴだと思うのか

多角的に捉えるかの違いであれこれ議論されていました


そして目立ったのが多角的に捉えるタイプへの批判や嫉妬心

確かにリンゴを見てリンゴだと思うのは正しい、そこにリンゴがあるだけでそれ以上の事は求められていないからだ

リンゴを見ただけで特に何も考えなかったからと言って頭が悪いと言われるのは理不尽だ


しかしそれと同時に物事を多角的に考えて深掘りする人の事を批判するのもまた理不尽と言える


世の中は何かと便利になって

スピードや合理性が求められる傾向にある

いらない物を捨て、シンプルに

スマートである事を美徳と考える事が流行っている


それもそのはず、その方が楽だからだ

けれどもならば単純ならそれでいいのか

と言うとそうでは無い


生きていくのはそんなに単純じゃなくて

必ず何かしら問題にぶつかる


世の中が便利になって

環境に恵まれていれば問題は誰かが解決してくれる

スマホにしたって簡単に使えるが

実際は到底及びもつかないような複雑なシステムと構造で作られている


言われた通りにしていればお金が稼げて

好きな物が買える

だから考える力なんて無くても生きて行く事は出来る


しかし単純思考のまま生きていると他人を不幸にしてしまうし、発展もなければ困難を解決する事も出来ない


自分と違うから嫌い

なんと無く嫌だから逃げる、攻撃する

批難する、そんな事をしていては平和はあり得ない

そうやって単純思考で気に入らない物を排除して、自分で理解せず人に頼ってばかりいるとその環境はどんどん悪化していく


けれども単純な人は愛されやすい

それもそのはず、赤ん坊と同じだからだ

意見を持たず、意思を持たず

ただ可愛い、だから人が面倒を見てくれる


そのまま大人になると何がまずいかと言うと

まともに子供を育てられない

人に何かを教える事が出来ない

子供がただ苦しむか犯罪者になる確率が上がる


平和で豊かな世の中には深い思慮を持った人間が不可欠だ


当たり前の事で、そもそも豊か

と言うのはバリエーションが多い事であって

単純な事では無い


単純になり、断捨離してシンプルになるのも悪くはない、けれども実際シンプルになって見ると大抵退屈になるだろう

その退屈は学習し成長しようとする知的欲求

そこにリンゴがあるとリンゴはただのリンゴでなく、知恵の木の実になる

その事に気がついた時

ただ与えられて生きていた雛鳥は自分で考える力を持った大人になれる


理解する事が増えるとそれだけ困難も増えるが、その困難が乗り越えられる物だと言う事にも気がつける


人は常に独り言を言うわけではないので何を考えているかは解らない

生物は皆、排泄せねば生きて行く事はできず

言いたい事を言わないと息苦しくなる

人間は言語を糧にする情報生命体でもあるので時々溜まっている言葉を吐き出す必要がある

吐き出す物が子供の駄々なのか愚痴なのか理論なのか歌なのか

それは人によって違うが

呼吸しない事には苦しいので

あらゆる考えは認めるべきだ

揚げ足を取って批判しているだけでは子供は育たない、大人がすべき事は深い思慮と豊かな発想を持ってして他者を導く事に他ならない

差別の無い平和な世の中を作るには

考える力が不可欠だ


生と死とアート

他人が死ぬと写真に変わる

死んだ時はショックが強くて様々な感情が渦を巻くが

しばらくすると、昔そういう人がいたと言う歴史的証拠として

そっと写真が飾られる事になる


時間軸を長く見れば、他人が死ぬという事は

どうという事でもない

肉体をもって接触可能だった人間が

写真に変わるだけだ


しかし死ぬのが自分の命だとすると一大事で

生き延びる為、より良く生きる為

良い思い出を作る為に人々は日々奮闘している

そんな大事な大事な命が

いざ終わってしまい、葬儀が終わり写真に変われば

飾られている動物のオブジェとさほど変わりない


人形を部屋に飾る人は、その人が誰かにとって大切だった場合

写真として飾られる事になり

飾る側から飾られる側に変わる


人は本来生きていない物をあたかも生きている様に見せる、という稀な性質がある


右往左往して一生懸命生きても

最終的にはオブジェに変わってしまう


人生と言うものを死生観を皮肉った芸術として捉えると何とも淡白で滑稽な物になる


言うなればこれは芸術が持つ闇の部分と言えよう


しかし逆の光も存在する

それは、今目に見える物の輝きに気づき

幸せを分かち合う事


迷走する現代アートは個性を主張するあまり

混沌と混乱を含み、生命の皮肉に走る傾向がある


なので絵葉書になるようなありふれた作品

と言う物は、軽視されてしまう傾向にあるが

そんな、明らかに美しい物を共有する

と言うのが芸術が持つ光だと思う


脚下照顧、足元に光を当てる

と言うのは、今そこにある物の美しさに感謝する事


配られたカードを悲観するのではなく

可能性に光を当てて進む事

地の底に落ちて混乱してもゲームを投げ出さずに誤魔化し、楽しみ

また光を当てて行く事


素晴らしさと滑稽さを合わせ持つ

人生と言うゲームは無限の可能性がある

きっと楽しい事は上手く工夫すればそこら中にあるのだろう


写真に変わってしまわないうちに

このゲームをやり込んで行こうと思う

心技体、全人類が気付くべき事

心→技→体

この流れを誤るとろくな事にならない


初めから優れた遺伝子に恵まれた人は

体に恵まれている

なので技術を蔑ろにして落ちぶれる


初めから環境に恵まれた人は

技に恵まれる

そうなると心を見失いやすい

技に恵まれる、という事はそれだけズル賢く世渡りが出来るという事

なので技さえ獲得すれば社会的成功は容易

だから表面上は成功している用に見えるし

その様に見せる事も技の性質だ


そして心

これにはそもそも上下関係は無い

全ての生物が平等で

根本として、生きたい

と言う概念でなりたっている

あらゆる物質的差別によって見下され

表現力の無さ故に見え方が湾曲する


つまり、そもそも命とは元は無であり、純粋

純心であった心は

それぞれ生まれ育った肉体や環境によって脚色されて行く物だ


そして人は、生物は生きながらにして生まれ変わる事が出来る

細胞は実際何度も入れ替わっている

問題は心だ


表面上の成果や結果、見てくれというのは

技、体でしか無い

心を蔑ろにして、根性や技術で実行していけばどうにかなる


なので社会的成功者とてカウンセリングを受けるし、酒やドラッグにも溺れる

表面的にどうであれ、結局皆平等に苦しみと喜びの中で生きている


人間が人間を見る目、真実を見抜こうとする目と言うのは

極めれば極める程、その生物の心も見える


脳の発達と言うのは、数値的判断に留まらない無限の可能性がある

そもそもにして、人が他の動物と解り合える事自体、生物として稀な例だ

しかもそれは、表情筋や感情表現の乏しい

昆虫や植物にまで至っている


植物が好む音楽を察知し、好む栄養、環境を察知し

より良い物とする

それ程まで心を理解する、思いやる才能に恵まれた生物は他にいない


人間が持つ力として一番優れた物が心である


そして心は、確かに鍛えれば強くなる

だが鍛えているのが技術なのか体力なのかを履き違えてしまいやすい


最初に鍛えるべき心

それは表面上の技術や体力、見てくれを取り除い考える必要がある


経歴、実績、と言う客観的証拠は

技、体でしかない


心と言うのは平等で

生きたい、でも痛いのは嫌だ

誰かが痛いのは可哀想だ


と言うのが根本であり

生きて行くには他者の命を奪わなくてはなら無いという残酷と

自他の喜びがそれを癒すと言う

明暗が生物に共通している


なので真に優れた技と言うのは摩擦の少ない理

と言え

真に優れた体とはその技を活かせる肉体と言える


そして優れた心とは、偽りのない心であり

それを守り通す強さである