ペタの哲学部屋

私ペタ(ハンネ)、が哲学を自重せずに展開していくブログです

コーヒーブレイク

コーヒーブレイク


コーヒーブレイクは大人の至福

朝日とブラックコーヒーが約束されていれば

安心して目を覚ませる


コーヒーはミルクや砂糖が無い

ブラックがいい


苦味には傷心を癒す働きがあり

コーヒーは甘く無いからいい


心の傷を受け入れる事

それが大人になると言う事だ


甘いだけが人生の幸せではない

甘い世界が幸せと言う価値観を

コーヒーはブレイクしてくれる


戦いに傷ついた心を

一杯のコーヒーが癒し

そして新たな飢えと乾きを与え

また狩へと赴く

雑記

雑記


自分はブログに対して少し硬くなっていた気がする

そもそもは日記なので、人に読ませる必要も無ければ評価される必要も無い

何を書くかは自由のはずだ


ネットに繋がっているから自分の流れにいながらでも、他人の流れを見る事が出来るので

自分を見失ってしまったり迷ってしまう


表現の世界と我流の世界は違う

表現において、評価される事においては

模倣が重要になる


何かに似ている事、どれ位何かに似ているか

と言うのは一番評価しやすい

なので商業において競われるのが

模倣力と言える


世の中にはあらゆるノウハウやキャラクターが既に存在しているので

その中から適切な物にはまっていけば

誰かの真似をすればその波に乗る事が出来る


しかしそれは本当の自由では無い

誰かのやった事の真似事に過ぎなくて

やはり、自分の道を見極めなくてはならない

殻を破るのにも順序があり

守破離、物事の始めは守

ルールを守る、何かの真似事をする

と言う道理がある


世の中には様々な型が既に配置されていて

その型に効率よく収まる事が

その世界での成功と言える


しかしどこまで行ってもそれは井の中でしか無い、その場所には必ず外壁が存在し

その殻の外には新たな世界がある

その殻を破るのが

守破離における破であり


ルールを破る、と言う事で

それには既存のルールより強い力が必要になり、殻が破れた時その力は証明される


その時、自由が手に入り

新たな場所、新たな井の中を探す旅が始まる

それが離


旅人には帰る場所や泊まる場所が必要なので

同じ井の中に戻るのも選択肢に入るし

旅を中断する事、歩みを進める事も選択肢に入る

自由とは、より多くの選択肢を持つ事と言える


なので決められたルートを進む事

守の境地に比べ無駄が多い


何かしらの世界で成功したいのなら

そのルールに従い続ける

模倣がもっとも効率がいい


しかしその成功とは結局何なのだろうか

周りりの人間が勝手に決めた成功に過ぎず

それが本当の成功なのだろうか


こんな話がある(短く要約する

漁師と億万長者の話だ


釣り船に漁師と億万長者の起業家がいた

漁師は暖かな陽射しの下で

気楽に魚を捌いていると起業家は

漁師に収入を増やす方法を講釈しだした

「いいかい?今からお金持ちになる方法を言うからね、よく聴くんだよ」

「あいよ」

起業家は漁師の気さくさに面食らったが講釈を続けた、それは船と従業員を増やし船頭として指示を出し収入を得て、似たような方法で拡大していくというシンプルな物だった、

それを聴いて漁師は言った

「それでその後はどうするんだい?」

起業家は少し困り言った

「毎日釣り三昧さ」

「そいつはいいね」


幸せになる方法には大きく分けて二通りあって

ボトムアップ、とトップダウン

がある

ボトムアップは底から上げる方法

これは先の話の起業家がやる方法で

身の回りの生活を豊かにしていくと言うもの


そしてトップダウンは漁師が取っていた方法で、自らが降りて行き

幸せになると言う事で


ダイヤモンドが地面に落ちていたとして

自分で拾うのがトップダウン

ダイヤモンドに登ってきて貰うのが

ボトムアップ

と例える事も出来る


どちらが良い悪いという事では無いが

今ある幸せを噛みしめれば幸せになれるのは確かだ


しかし世の中にはルールという殻がある

釣りをするにしても遊漁券が必要だし

海や川が汚れていては魚が釣れ無い


人間関係や社会でも同じ事が言えて

目の前に様々な人がいても

一人一人にルール、価値観があって

話しかけるのには勇気や目的がいるし

無闇に話しかけても上手く行かない


バイト先でレジ店員に話しかけてくる客が何人か居て、それは基本的に余計な仕事が増えたり

場合によっては、他の客を待たせる事になるので迷惑だ

仕事中には仕事中のルールがあるので

雑談に花を咲かせて他の客を困らせる訳にも行かないし

そもそも自分が話したいとも限ら無い


お互いに心を開くにはお互いの合意が必要だ

なので同じ井の中、と言うグループに入り

ルールに従うという手段や

一人一人それぞれの都合があるので

相手のルールを見極めた上で調和する

と言う事が大事なのかもしれない


迷惑な客と店員とでは

店員は仕事をしている、と言うルールがあるので、その仕事に沿わない内容は迷惑になる

プライベートで話しかけられる分には何も問題は無いが

客が上という錯覚を利用し余計な事をしてくるのはマナー違反だ


人見知りと馴れ馴れしい人は相対的で

人のルールを察し思いやりを持ち

適切なタイミングや力加減を見極め

縄跳びの中に入る勇気が出せれば人間関係は上手く行くのかもしれない


人のペースを乱す強引なやり方もあるが

ペースを乱さないようなやり方もある


マイペースと他人のペース

内と外、そのバランスを見極めれば

人間関係は上手く行くのかもしれない


しかし最終的にはやはり自分が一番大事で

寂しくなる時もあるが

一人で居るのは気楽でいい


人は一人では生きていけないのではなく

一人だと寂しくなる


人は金を稼がないと幸せになれないのではなく

金が無いと虚しくなる


誇張される事、盛って話す

と言うのが商業の基本で

真理はそんなものなのだろう

心技体、ジョーカーの役割

心の考察が増えて来たので

そろそろ技の考察に入ろうかと思う

その前に見失ってしまうと問題になるので

心技体の重要性を確認する


何かを学ぶ時の順番

心→技→体

これは結構重要だ

しかし人はこの順番を間違えても成功出来るし

才能と環境に始めから恵まれている人も多い

優れた技術や肉体、環境に溢れていると起こる問題が

心を置き去りにして、技、体だけ発達する人が出て来るという事


心が幼いままでも出世は可能である

しかし心が幼いまま大きな力をつけると

社会問題を起こしてしまう可能性が高くなる

宇宙戦艦ヤマトサイコガンダムに幼稚園生が載っている事を想像すれば

心を置き去りにしてしまう事の危険性も想像出来るだろう


心が幼いまま出世し多大な人気をつける行為というのは、誰かに自分の心を救って欲い

と言うSOS信号と受け取る事が出来る


なのでその場合、愚者のカードを持っている人間は、キングと戦わなくてはならない


トランプのキングに勝てるジョーカーというカードは

宮廷道化、ジェスターを表していて

その仕事はキングに説教したり哲学を説いたりする事だ

そのようにして最高権力者が暴君にならないようにする制度が設けられていたと考えられる


そして、最高権力者、キング、天に時としてツバを吐く人物と言うのは心の賢い馬鹿でなくては出来ない

なのでジェスターは愚かな格好をしている

ピエロは涙を流し笑われながらでも舞台を盛り上げ、演目を変える仕事と言え

その上のクラウンは涙のメイクは消え

より誇らしくなり

さらにその上の宮廷道化、ジェスターは

国と言う舞台を導く為に存在している


いつのまにかジョーカーの話しが長くなってしまったが

心技体の順番を間違えて心を置き去りにしている人を救うと言うのは友の役目だ


心より先に成果を出してしまう人と言うのは必ず居て、彼らは自慢ばかりしているように見えるが、

それだけ心を救って欲いと言うSOS信号も発信している可能性が高い


与えられる事に慣れすぎている人は

技術や成果を手に入れる自動販売機のボタンをつい押し過ぎてしまい

ぶくぶくに太ってしまう

太っているという状態は、それが異常であればあるほど救済信号を出している状態と言える

なので良き指導者というのは

危険な状態を察知し、

上手い事救ってやらねばならない

餌ばかりあげて躾がなってないのは虐待に近い

芸を覚えてスリムで賢くなる

と言う事が何よりも喜びであるので

何事も可愛いからと行って甘やかし過ぎると良くない

我流と模倣、争いについて

自己哲学の面白い所は前人未到の解答に出会える事である
なれて来ると毎日のように新しい発見があり
その新しい発見という食料を求めて生きるような生活になる
私はこの快感に魅入られた哲学ジャンキーなのだと思う
そしてそんな自称哲学者になるには条件があって
それは我流で考える事だ、模倣しているだけでは前人未到の解
オリジナルにたどり着く事はできない
本を沢山読んだり真似したりしていれば
他称哲学者にはなれるかもしれないが、
肝心な本人は自分を認める事ができないかもしれない

さて、では我流と模倣について説明しよう

著作権の侵害、という概念がなぜ存在するのか考える
発明家が発明をパクられた場合、
パクられた人はされるはずだった賞賛や資金
を奪われてしまう、という社会的側面の問題と
真似される事自体が侮辱に思える
という主観的問題が発生する
なのでその事を訴える為の法律が作られた

ただし、結局の所、パクられた人が訴えなければ問題にならない
そして黙って見ているだけなら、本来オリジナルであった人間が
模倣者として認知される可能性があるし
たまたま似たような時期に同じ考えが生まれただけかもしれない

模倣と我流という概念は時としてその権利を奪い合う事になるので
争いが発生する、

なので模倣と我流を説明していくと結論としてぶつかる問題が
人はなぜ争うのか、という問題になる
争いというシステムは客観的に判断すると
集団の学習プロセスといえる
対立する考えが発生し、どちらが優れているか優劣を決め
模倣されるべき象徴、という椅子を賭けて戦う
そうやって淘汰されていく事によって文明は進化していく

そしてこの争いにもレベルが存在し
争いというのは、学習形態の一つなので
問題を解決するか、長所を伸ばす為に行う行為といえる
それがレベルの高い争いか、低い争いか
というのを見極める為には表面だけみていると解らない

争いを医療に例えて説明しよう
レベルの高い医術というのは、成功率が高く
患者への負担やリスクが少ない物の事だ
そしてレベルの低い医術は逆に成功率が低く
患者への負担やリスクが増える

つまり争いのレベルというのは
成長という目的に対するリスクリターンで決まる

大きな被害や大きなリスクがある争いというのは
錯覚しがちではあるが、事が大きくなればなるほど
争いのレベルは下がる

見かけ上の数や大きさが大きい程それが重要に思える
という根本的な本能が時として大きな過ちを犯してしまうのだ

人気がある人が偉大とは限らないし
金持ちが偉大とも限らない

なぜなら多くの道具や兵隊が無いと生きていけない
というのは、一人で生きて行ける人よりも能力が劣っていると言えるからだ

ただ、ここでいう能力
というものは見かけ上のステータスではなく
その人間がどれだけ効率良く幸せに生きられる能力があるか
という事だ

より多種多様の装備を揃えている弁慶よりも
軽やかに舞い、扇子で脛を叩いた牛若丸のほうが強い
と言える

ただし、別に弁慶が淘汰されるべき悪者でもないし
牛若丸が模倣されるべき象徴でもない

たとえば弁慶と牛若丸が学校にいて
どちらがリーダーになるべきか
そしてどちらがいじめられるべきかを考える

リーダーに選ばれるという事は
いじめの対象に選ばれる事と相対的だ

よく、いじめられる方といじめる方どちらが悪いか
という下らない話題を持ちかける人がいるが
別にそんなのどっちでもよく
いじめ、という現象その物が問題だ
集中力のある人はその集中力のせいで全体が見えなくなるのだ
そのせいで問題を解決する側でなく
一緒に争う側に入ってしまう
いじめを無くそう、という会議でいじめが発生してしまう
というなんとも下らない事になってしまう事もよくあるのではないだろうか

さてでは外側から結論を出すと
いじめられっ子がなぜいじめられるかというと
レベルの低い闘争を発生させてでも気になる何かが
その子にはあるからだ、
消化する技術がなく大きなリスクを背負ってまで何かを
得ようと集団が考え、攻撃実験、という愚かな行為に走ってしまうのだ
リーダーに仕立て上げるのも同じ考えで
集団がリーダーをその椅子に座らせるとどうなるか
という実験対象として得ればれるからリーダーはリーダーになる

ようするに、学校のいじめと
選挙と戦争は同じ問題なのだ

最後に
いじめや戦争というレベルの低い争いを
レベルの高いものにしていく事を説明する

レベルの高い医術を想像してみればいい

ガン治療を例にしよう
私は現在のガン治療がどの程度か知らないが
メスを使った手術よりも
ナノマシンが開発され、ガンをノーリスクで分解するほうが
優れているのは明らかだろう

ガン細胞を摘出するというのは
転移するリスクや、そもそも肉を切るというダメージから
避けては通れない

ガン細胞を集団における逸れ者に例えると
雑な手術というのがいじめと言える
そもそもガン細胞かどうかという判断すらできずに
実際はただ単に他より優れた筋肉かもしれない
他と差があるというだけで混乱するのがレベルの低い争いと言え
レベルの高い争い、つまり集団におけるレベルの高い学習形態
というのは、
異物を排除するのではなく
より少ないリスクで理解し、成長していくという事になる

食という避けられない争いの世界で
最も多く繁殖しているの生命は植物で
それは水と土だけという最も負担の少ない方法で
争いに勝利し、食、生きるという権利を勝ち取っている生命だからだ

多くの事が可能な代わりに本質を見失う人間と
殆ど動けないが本質的に成功している植物
は相対的であって
人間が植物から学べる事は果てしなく多く
まじめに授業を受けるよりも
よそ見をして草や空を眺める方が実は学習の本質に近い

集中するという闇と新しい事に興味を持ち
広がっていくという光
双方のバランスが重要で依存から離れ成長するためには
相反する思想両方を受け入れなくてはならない

癒しと金生水

金生水
金生水(ごんしょうすい)金属の表面には凝結により水が生じる。

 

価値が感覚(快感等)を与えるという考えについて
この修行が成功すると人は悟りを開く
映画でいう所の泣けたりジーンと感動したりする部分
人が修行する理由はこの良い水を求めているからだ

 

物事には正負があるので当然不快感になる事もある
それはともかく、まずは凝結、結露という現象を考えよう

金属の表面に結露ができるから、金が水を生む
というのは少し無理があるように思える

金属がそこにあるからといって水は出てこない
結露を発生させるには温度差が必要になる
つまり、外気と比べ金属を冷たくする事によって水が集まる

そこでまた疑問が生じる、
水が欲しいならそんな面倒な事をせずそこにある水を飲めばいいのでは?
という問題

 

日本という国は飲み水に恵まれている
なので時々飲み水の大切さを見失ってしまう
飲み水に恵まれない場所で生きる事を想像すれば
この金生水のありがたみが解るだろう

泥水や海水というのはそのまま飲むと体に悪い
なのでより良い水を飲む為に浄化せねばならない
水を浄化させようとした時、一切の金属を扱わないで
やってのけるというのは、出来るのかもしれないが難しい

日本で水道水と蒸留水のどちらがいいかという事は
水道水を飲み続けた事による人体への弊害を自覚した上で
蒸留水に変えてみると解る

水道水の飲める飲めないは地域によって変わるので一概に言えないが
私が住んでいる所の水道水は私の体と相性が悪いらしく
喉が痛くなってきたり、胸焼けをしたりして辛くなってくる
なので私はスーパーで無料の水を貰って飲んでいる

なにが言いたいのかというと、水の善し悪し
というのは、比較対象があって初めて認知できるという事

 

さてでは、良い水を得る、という事を心的な解釈に当てていこう
金(価値)から水(感覚)を生むには

物理的に金属を冷やすように、価値観を冷やせばいい

価値観を冷やす、一見意味不明だ

結論から言って、物事の価値を冷静に見ればいい


金生水を達成すると悟りを開けると先に述べた
悟りを開く人が何をしているか、を観察してみると
彼らは座禅を組んでいる

では座禅を組めばいいのかというとそうでもない
悟れる人もいれば悟れない人もいる
座禅を組んでいるのは見かけ上の問題であって
心の中がどうなっているかはその人次第だからだ
だから別に座禅が正しいとは限らないが
あれは物事を冷静に判断するためのフォーメイションといえる

悟りを開く事ができた人は、なぜ悟れたのか
その理由が、金生水
そこにある価値にまず気がつき、それを冷静に見て
いまそこにある物事の素晴らしさに気がつく状態にもっていく事に成功したからだ

その時映画を見て感動するように鳥肌が立ち心地よくなる

 

自分が今までしてきた事の価値に気がつく事
今までそこにあった環境のありがたさ
道端のタンポポの可愛らしさ
そういった物に冷静な視点で喜びを認知する事
それが良い金生水といえる

良い水(感覚)と悪い水(感覚)について
アスリートがなぜあそこまで自分を追い込むのか
それは修行によって達成感という人間が感じうる最高の快感を味わえる事を
知っているからだ

ようするに、与えられた手垢が付いてるかもしれない水をただ飲むのではなく
自分で作った水が安全で
自分なりの努力でより美味しく感じられる事を知っているから
その水を作る為に奮闘しているのだ

 

価値に火を当てている状態というのは
ヤカンに火を当ててその蒸気やお湯で何かするならいいが
目の前にある価値に火をつけ熱していると
結露が発生しないので、その物のありがたさに気がつけない事がある

 

冷静な愛を仁愛というらしいが
時として、物事を冷静で仁愛の視点、観音のような視点で見る事
その境地に達した時、ただ生きているだけで幸せに思える
そして水は分け与える事ができる
理解や水が足りない人は目の前の幸せに気がつけず
他人を不幸にしてしまう
なので当たり前の幸せを傷つけてしまわない為に
周りの人々にはこの事に気がついて貰わなければならない

私がこうやって理論を公開しているのは様々な理由があって
自己認識や達成感の為でもあるが
愚かな行動や考えで過ちや疑念が拡散しない事を願っているからでもある

腐った価値観と土生金

昨日金行の歪みについて説明したが
土生金の説明が足りていなかった

 

土(経験)が金(価値)を生むという事だが
悪い価値観というのも悪い経験から生まれてくる

 

その経験が良い悪いに限らずに
金を生み出すシステムさえ発動すれば金は手に入る

早い話、歪んだ価値観を持ってしまった金持ちの人は
過去のトラウマを消化できていないまま金持ちになった人だ

 

私はそういえば以前はとても塞ぎ込んでいて
世界なんて滅べばいいと思っていた

今となっては過去を消化したのでほぼそんな事は無いが
思い返してみればそうとうな気違いな行動をしていたし
そしてその気違いじみた行動がその時の自分にとって最善だったので
後悔はしていない
この事は長くなるので控えるが

 

トラウマ、つまり心の傷
それを抱えたまま治せずにいると、人は間違った事や
間違った考えを抱くようになる
何が間違っているかという点は自分で気がついて欲しい

ただ大抵別に間違っていなかったという場合が多い
それを認めてくれる人がいないから不安になるし
自分で理解できていないと不安になる

 

悪臭について説明しよう
腐った物からは悪臭がする
ではその悪臭は本当に悪い物なのだろうか
その悪臭の正体はブルーチーズかもしれないし
納豆かもしれない、あるいは魅力的な異性が放つフェロモンかもしれない
正体が解らないく疑念を持つから悪臭は悪臭になる

人というのは大抵愚かで幼い
解らない事だらけで不安だからそうなるのだろう
そしてそうなってしまうような世の中だからそういう愚者は多い

どういう世の中なのかという事について
この国は金を稼ぐ事を良しとしている
たしかに金はいい、欲しい物が買えるし
自分を魅力的に見せるのにこれほど都合のいい信仰はない
たしかに金はいい物だが

金を稼ぐ、というのがどういう事かというと
早い話、戦場で戦って勝つ、という事
そして戦場という場所はとても厳しい
なので騙し合いが平気で行われている
流石に知っていると思うが金を稼ぐ世界は嘘だらけなのだ

 

悪臭の正体は嘘である

口臭を例にしても、初めはなんらかの食べ物であったが
色々混在している内に雑菌が繁殖し
その雑菌の事を理解していないから悪臭になる、
試験管でその匂いを調べる分には悪臭ではなく実験にそった正しい匂いになる

例えば人を否定したがる人がいたとする
幼稚な人が否定する事が見つからない場合、最終的になんか臭いと言い出す

その人は全てが気に入らない、周りの何かが気に入らないと思っているので
他人の良くない所をいち早く見つけ悪口を言い出す
そして集団にそういう悪いムードが漂い
その正体を見つけようとし、人々が疑心暗鬼になる
頭の悪い人に限って間違った推理を初め
学校等で起きるいじめ、というのは
頭の悪い迷探偵が行った迷推理と
それに従う頭の悪い自警団達が暴走した結果だ

はやい話、そういう場所に居ると
どんな人間でも犯人に仕立て上げられてしまい
冤罪を泣き寝入りし、本当に自分が悪かったと思い込んでしまう
しかし、そんな悪臭という疑念が漂わない場所に行くと
新鮮な空気の存在を認知でき
悪いのは自分ではなかったとやっと気がつく

 

トラウマを治す事に話を戻そう
心の傷というのは体の傷と大体同じような仕組みになっている

つまり、生傷の状態では触るだけで痛むし
不衛生にしてると被れる

実際の傷を治す要領で心の傷も治る

傷が深い場合、取りあえず縫うなりして血を止めなくてはならないし
衛生を保ち包帯で包む必要がある
鬱病の人がやる気を失い、閉じこもろうとする本能は正しくて
傷を癒す為に外部の接触を断つ必要があるからだ

 

だが閉じこもりすぎるのにも問題がある
包帯を何時までも外せず、化膿してしまう事もあるし
ある程度空気にさらして、呼吸させねばならない

前回の記事で語っていた、金の城、差別の要塞、地位の鎧
というのは、デリケートな心の素肌を守るためにある
心を病んでしまう大物というのは
サイコガンダムに乗ったフォウ・ムラサメのような物で
でかい事を言ったりやったりして見せるが
中身は幼い場合が多い

 

何時までも温室で育っていると健康な野菜にはなれない
環境や自分自身の考え、価値観という部屋から抜けて
少しずつ免疫力をつける必要がある
きつくなったらまた部屋に帰って休めばいい

そしてこの、免疫をつけ、
臭いものに蓋をするのでなく受け入れる力をつける事
それが差別を無くすという事であり
多様性を認めるという事でもある

人の種類がやたらと増えているので
この、多様性を認めるというスキルは全人類に必須だ

金行の説明と世界平和(重要)

五行思想(我流)による金行(価値)の話
この話はとても重要で
できればトランプか金正恩に巡り巡って伝わればいいと思う
直接私の手に負える問題では無いが方法論は解る
彼ら金の悪夢に苦しむ殿様の心が救われれば世界は救われる

 

彼らの問題は何を隠そう金行が歪んでいる所にある
つまり、大きな金(価値)の使い方を誤ってしまっているのだ

 

金行について原始時代から順を追って説明しましょう
広い荒野に人が居たとします
人間は大して体力に恵まれていません
なのに回りには肉食獣がいて危険です
そこで一人賢い人間がいました
その人間は気まぐれで石ころを拾いました
食えるわけでもない石ころに彼はなぜか興味をしめし
尖っていると痛い事、武器に使える事に気がつきました
そしてその武器を広め、彼はその時代の神になり
やがて人々は鉱物の硬さに価値を見出し
それがお金に変わって人々の生活の一部になりました

 

次に侍の時代、刀の時代についてです
この頃には人間は大分強くなりました
そして動物を狩るだけでは飽き足らず
時として人を刀で切るようになりました
おそらくこの時代はお金よりも刀のほうが重きを置かれていたと思います
商人が一生懸命食べ物を売っても
刀で脅してしまえば食べれてしまうし
法律や警察は今ほど機能していませんでした
そんな中で人々は戦い、そして学び
武士道のなんたるか、哲学や戦闘技術を学びました

 

そんなこんなで文明は発展していき
刀が紙幣に変わったり、戦闘機やインターネットに変わったりしました

 

金行に話を戻します
この金行が表している物は
鉱物、雷、お金、です

先に述べた刀、戦闘機、電気、紙幣、 これらは金行に分類されます

これらをまとめて表現すると「価値」になります
鉱物や刀がなぜ優れているかというと
他の物と比べてそれが硬く、ぶつけた時勝つからです

金行とは、優劣を比べる行為その物です
この考えに偏り、極論を言い出すと人の体を刀で切ると死ぬので人より刀のほうが優れてる
という意味になります

 

刀ばっか集めて、兵隊を集めて
その扱い方もよく解らずに人民を苦しめた殿様は
昔から居ます、彼らは余りにも力を与えられてしまった為
自分自身を追い込んでしまい、周りの人々まで苦しめてしまった

 

今の時代も大体同じです
刀が紙幣に変わっただけです
金行が歪んでしまった人の不幸というのは

 

それをチラつかせただけで欲しいものが手に入ってしまう事
人を操れてしまう事です
金で何かを買う、刀で脅して何かを奪う
そういった行為には愛がなく、金に頼れば頼るほど
矛盾した愛に枯渇感を覚え、
とうとう殿様は幸せそうに暮す市民まで敵にしてしまうのです

 

金行の扱い、価値の扱いを間違えるというのは
人が不幸になってしまうような差別をする事です
刀で例えると、首と体は繋がっていないと生きられないのに
首のほうが優れているから切ってしまう
という考え方です

 

逆に良い扱い方というのは
刃物も金も使いようで、刃物なら料理やガーデニング
彫刻、等使い方しだいで人を幸せにでき
お金の使い方は色々ありますが、見せびらかす為でなく
もっと有意義な使い方があるはずです

 

最後に
金に関する五行の相生(そうせい)、生み出す事
相剋(そうこく)、滅ぼす事を説明します


 
土生金(どしょうごん)
鉱物・金属の多くは土の中にあり、
土を掘ることによってその金属を得ることができる。

土とは、経験と言い表せるので
エクスペリエンスマーケティングがこれにあたります
価値というのは経験から生まれ
私達が高く買っている物は物質その物より
経験です

 

金剋木(ごんこくもく)
金属製の斧や鋸は木を傷つけ、切り倒す。

木は豊かさ、あるいは人そのものを表せるので
生き物の素晴らしさを差別してしまう事や
刀で切ってしまう事に例えられます
ただし医術や料理のようにいい使い方もあります

 

火剋金(かこくごん)
火は金属を熔かす。

最終的にこれが大事です
火とは根本的欲求、情熱、愛と例える事ができ
金行の歪みを直すには
金だけに頼って一緒にくっつけてきてしまった悪い思惑、疑念、
そういった物を燃やし尽くすか
笑い飛ばし、黒煙の出ないような純粋な心の火に変える事です

心の炎が綺麗なものになれば
晴れて、歪みに歪んだ殿様の心は無邪気に笑う事ができ
戦争にならなくて済みます

ステータス、価値観、そういった差別を無くし
子供のように笑う事、馬鹿になれる事、
それが世界を救う事で
金の城、差別の要塞、地位の鎧
大きければ大きい程それを拭い去るのは難しいだろうし
今まで素肌をさらしてこなかったのだから
裏切られてしまう可能性は懸念せざるを得ない

戦地でいきなり裸になれとは言わない
けれども少しづつでも弱みを見せたり
人を傷つけないような冗談を言ったり
頭が固くなった殿様が心を開けるように
民衆は彼らの心に働きかける必要があるのかもしれない
強がってはいるが、おそらく彼ら金持ちも辛い気持ちを抱えた人間なのだろう
この世界を戦争の炎で包むのではなく
差別を溶かす火を灯していく事が大事だ

 

イメージとしてはサンボマスターとかすごくいい
彼らの炎はとても綺麗で差別に訴えかけている