ペタの哲学部屋

私ペタ(ハンネ)、が哲学を自重せずに展開していくブログです

静と動

行動が存在しなければ善悪も存在しない

行動には必ず摩擦が発生し

配慮の度合いで善悪が決まる

善悪全てに何らかの言い訳が可能で

その言い訳のレベルによって罪と罰が問われる


爽やかと言うのは精神的摩擦が少ない事


風は砂嵐や車に比べ人にあたえるダメージが少ない

なので行動的でありつつも配慮があり

爽やかな人は風を連想させる

風のような状態と言うのは他人を傷つけない配慮がなされた状態と言えるが

力が強いと突風になりダメージも増え

弱った人が晒されれば尚更厳しくなる


何もせずに黙っていれば摩擦は少なくなる

非行動的な人間はそれだけ誤った事をしなくなるのでその事が評価される場合がある


非行動的と言うのは突き詰めれば変化が無い事と言える

一見して忙しそうにしていてもパターンに変化が無ければ、そのパターンの枠組みで静止している事になる

石ころを眺めても動いているようには見えないが、実際は原子核の周りに電子が回っている

つまり行動的と言うのはより新しいパターンに変化する事といえ

非行動的と言うのはパターンに変化が無い事と言える


静と動、それは表裏一体で

互いが認知する為に必要な要素と言える

波乱の人生もあれば変化の無い人生もある

結局人は出来る事しか出来ないので

行動出来る事も出来ない事も誤ちでは無い

行動するにはパターンから抜ける扉を見つけ

抜け出す必要があり

留まるにはその扉を閉めておく必要がある

人生において、あらゆる扉を開いていく事が正しいか、扉を閉めて安住するのが正しいか

と言う問いに答えは無い

とにかく人生にはあらゆる扉があるが

その事に気がつきすらせずに苦しんでいるのだとしたら愚かだし

開けてはならない扉を閉めれずに苦しむのも愚かだ

結局人間は全員愚か者だが

人生の扉を開くのも閉じるのも案外難しいのでやはり人生は難しい

簡単だと思いたくなるがいつまでも簡単だと思い続ける事は出来ない


運命と選択

この記事を思いついたのは
今まで記憶のどこかで引っかかっていた
福山雅治がなぜ晩婚なのかという問題と
生きていく上で正しい選択とは何か
運命とは何か、結局何をすればいいのか
という問題が自分の中で繋がってきたからである

とりあえず、福山雅治晩婚問題から
彼は間違いなくモテる、その事は誰もが知っている
、そしてようやく結婚したら
会社を休むファンが大勢いた程、日本では影響力のある人物だった
私は最近になって「桜坂」の良さが今更解ってきたのだが

この桜坂、初めはイケメンが何ほざいてんだ
、モテモテの癖に煽ってるのか?と斜に構えていた
しかしどうやら彼はフラれた悲しみを歌っていたようだ
そして、その復讐心ややるせなさが爆発力となって
ひたすらモテる為の努力をし続け、現在に至る
というのが私の読みだ

どうもやたらとモテる割りに、これだ
という人とカップルになれなかったようで
ひたすらモテる、アピールしまくる
と空回りを続けていたのだと思う、そしてそれは
多くの人にとっての混乱や幸福を与えた

最近人気のユーチューバー
はじめ社長等も、振られた彼女を見返したいが為に発起したそうだ

そして、このモテるのに安定しない人物
周りにとっては、根こそぎターゲットを持っていかれるので
度が過ぎると迷惑でもある
なので、いい加減満足してもらう為に周りの人間が協力的になったりする
そんなこんなで、ようやく落ち着いたのではないだろうか

彼の運命を考えると、大分遠回りしている
けれども彼の選択が間違っていたか、というのは一概に言えない
おそらく目的の達成からはどんどん遠のいていったが
結果的には素晴らしい人生と言えるだろう

では、次に選択について
人生ではあらゆる瞬間に選択肢が突きつけられる
そしてその選択肢やリスクリターンは考えれば考える程増えていく

例を出そう
火の輪を潜る、という試練が目の前にあったとする
その試練に出会った人のパターンをいくつかまとめる

1 あまり考えず潜り、喝采される人
2 あまり考えず潜り、失敗し後悔する人
3 よく考えた結果潜り、喝采される人
4 よく考えた結果潜ったか、止めて、特に何も得なかった人

さて、この中には よく考えた結果後悔した人はいない
なぜなら後悔しないような選択を覚悟する、というのが
よく考える、という事だからだ
人間がなぜ失敗し、それに後悔するかというと
実行や非実行によって発生するリスクを受けれる手段を用意していなかったからだ

もちろん、たまたま上手くいく事はある
しかし、取り返しのつかない大失態を犯してしまう事もある

この、あまり考えないで大きな事をしてしまう人間
こういった人間には多くの仲間か多くの敵が出来る
そうでないと社会はおかしな事になってしまうので
集団は彼をどうにかするしかなくなるからだ
そんなこんなで、時として無謀な挑戦が許される人間がいる

この挑戦する、という行為は
脳の安全地帯、つまり傷のケアが出来る条件が多いほどしやすくなる
ようするに、命綱があるから危ない所にも行けるという事
もちろん命綱などなくとも可能だが
危険な行為を続ければ続けるほど失敗する可能性が増えるので
挑戦者は必ずリスクをケアする手段を持っている

人生をダーツに例えてみよう
もしもダーツが、必ず真ん中に命中するスポーツだったとしたら
これは競技として成り立たなくなる
狙っても当たるとは限らない
といのが競技として成立するミソであり
人はこの、上手くいくかどうか解らない事に挑戦し
成功する事を喜びとしている

だがしかし、誰もが競技にのめりこむ訳ではなく
生きていく手段は他に幾らでもある
挑戦しないで生きていく人間は火の輪潜りでいう所の4
よく考えた結果潜ったか、止めて、特に何も得なかった人
に当たる
この4の人は、失敗しない事やリスクを消化できない事、あるいは消化できる事を知っていた
なので、結果が成功にしろ、失敗にしろ
彼にとって予定調和なのでなんら変哲のない日常を過ごした事になる
そして普通の人が出来ない事をあたりまえにしていく
というのが、強くなる、という事とも取れる

人が成長するにはやはりある程度のリスクが取れる必要がある
なので強くなれば強くなる程、さらに成長を求めるなら
より強い相手、あるいはより厳しい状況を求めるようになる

よく、こんなはずではなかったと
後悔する人がいるが、あまり考えずに実行した結果であり
そしてその失敗を引きずり、
その失敗に価値を見出せていないか消化できていない証拠でもある
もし、なにかを後悔しているなら、その後悔を乗り越える
という試練を与えられている事になる

失敗する前にもし覚悟が出来ていれば
そういう試練すら乗り越える覚悟があるという事なので
失敗は失敗ではなくなり、新たな試練を買っているような事になる

最後に
この挑戦する、という行為が選択であり
条件通りに進む、というのが運命でもある
運命というのは、本人は自覚できない場合が多いが
客観的に見るとよく解る
気が合うからなんとなく、とか
そこにいたからなんとなく、というのが運命であって
火の輪の例の1か2をたどっているのがそれと言える
考える力が無いほど、1か2の運命をたどり
力がある程3か4の日常の中から
1か2の運命を探す事になる

運命にまかせっきりの人は
いつか大きな後悔をし、反省を余儀なくされ結局考えるようになり
考え、よい選択を求める人も結局
より不確定な要素を求め運を試す事になる

世の中あまり考えない人のほうが成功しているように見えるが
長い目で見ると実はそうでもなく、考える人が成功しているように見えても
実はそうでもない
不平等なようでいて、時間軸を長く見れば平等なのかもしれない
世の中の人間関係のバランスというのは上手いこと出来ている
多少適当に行動してみても、案外周りが何とかしてくれるか
時間が解決してくれたりもするので
ハメを外すというのも悪くないかもしれない

私はこれだけ語っておいて、
結局ほんのちょっとだけ勇気がわいてきましたとさ
ちゃん ちゃん

協力と闘争

人と協力すべきか、
あるいは闘争すべきか

これは意外と難しい問題だ

社交的な人であれば迷わず協力と言うかもしれないし
卑屈な人は闘争しか見えないかもしれない

やはり結論としてはどちらも重要なようだ


闘争において
仮にお互い同じような強さだった場合
相手の弱点を突いたほうが勝ちやすい

そして逆に協力の場合
相手に何らかの利点(力)を見出しているから
協力出来る 

ならば人の良い部分を褒めて
皆が協力的になればいい、と思うかもしれないが
多分事はそんなに単純ではない

アメリカと日本の関係を例に見ていこう
現代の日本はアメリカに媚びているような所があり
協力的で、アメリカの文化から良い部分を吸収していっている
、そして甘いものばかり取っていると体に悪いように
あらゆる依存や欲望も吸収してしまうというリスクを背負っている

ただ、日本にもアメリカに敵対心を持っている人達もいる
そしてそれは、当然と言える
なにせ日本は敗戦国な訳で、
その傷はそう簡単に癒えるわけではないからだ
今となってはその怨念が風化しつつあるが
よほど酷い事をされた相手に対し
両手を挙げて、媚びへつらうのが正解かと言うと
それは違う

深く考えず愛嬌を振りまいて媚びていれば上手くいく
というわけではない、なぜなら
だれにでも何処かに闇や歪みを抱えている所があるので
その歪みを許し放任し続けていると、やがて人は調子に乗り出す

こいつなら何をしても怒らない
こいつは騙されている事に気が付かない
やがて人はそのように考え出し
お互いにとってかえって悪影響になってしまう

時として守らねばならないプライド
というものが必ず存在し
その為には闘争が必要になる

人は協力しないと生きていけない
とよく言うが
逆説も存在し
人は闘争しないと生きていけない

というのは間違いないだろう

なぜ人は戦わなければ生きていけないか
という理由はとてもシンプルで
人間が捕食動物であるからに他ならない

生き物を食べるという事は
見えていないにせよ、戦いに勝って
命を奪っている事に他ならない
そしてこれは肉食動物に限らず
草食動物も同じで、食というシステムがある限り
闘争が無くなる事はない

なのでいい人生を生きる
という事は
いい戦いといい協力をする、という事と考えられる

ただしこれも、中々難しく
物事の善し悪しの判断は見る角度で変わってくるので
一概に断定できるものではない

問題になるのは、おそらく偏りと執着と考えられる
なので
戦い、協力、成長
それらの効率化が重要になる
バランスの偏りが解消でき、執着を手放せるようになれば
後は自分の心で判断する
という選択肢がようやく手に入る

現代では人対人で直接血を流す例は減っているので

それはいいが、脳対脳で不毛な戦いは多い

生きている以上犠牲が発生するのは仕方が無いが
無駄を減らす事は出来る

 

 

最後に
この、効率化に五行が応用可能で
様々なパターンが存在し
上手くいかない場合
木火土金水の何かが歪んでいる

例えば戦いでは

木 豊かさ=スピード、豊富なパターン
火 情熱= 攻めの姿勢
土 経験= データの量
金 価値= 物質本来の力、扱う道具の強さ
水 感覚= 守りの姿勢

と当てはめる事ができ、相生、相剋等
その相対関係を利用すると上手くいき 
協力するなら逆にこれらに価値を見出せばよく

成長過程の例としては

木 脳に知識がある状態→火へ
火 知識から情熱を燃やし行動的な状態→土へ
土 情熱を燃やし尽くすとよく眠れ、経験を積める→金へ
金 よく眠った後は経験が整理され、判断力が高まるので経験から価値を見出せる→水へ
水 価値を見出せればそれが快感になり、報酬系の活性化と共に脳が育まれる→木へ


このような流れが好ましいと思われる
細かい部分はその時の都合で変えればいい

歪みと強者の考察

整体に行ってヘルニアによる骨格の歪みと痛みがある程度直り
非常に助かったので
確かな技術を持つ整体師さんに感謝しつつ
歪みについてまとめてみました


ここでは歪みについて
広い視野、中立的な立場で考え述べる

まずは字から、不正 と書いてある
ようするに正しくないという事

そしてこの正しくないこと
正しくない部分、歪み
このような現象、人間にとって歪みは必要不可欠な
重要な役割がある

例えば

正正正正正正正正正正正正正
正正正正正正正正正正正正正
正正正正正正正正正正正正正

この用に正しいものが整列していると
人はそれを脅威に思え、離れたくなる
軍隊や警察が規律や身だしなみを整え
硬い印象を与えているのはそれを畏怖の存在として
印象つける意味合いものあるかもしれない

次に
正正正正正正正正正正正正正
正正正正正正正歪正正正正正
正正正正正正正正正正正正正

このように一部だけ歪みがあると
そこは着目され、人は興味を持つようになる
そして、その歪みが直せないか考えたり協力的になったりする

人と言うの生き物は、農耕を初めた由来として
協力しあう本能が備わっている

育てた作物に歪みがないか
集団において歪みがないか
そしてその歪みに対し、
協力的になるか、あるいは価値を見出すか
または嫌悪し排除するか
そうやって社会は秩序を保たれていった

ただ、排除する、という手段は
出来るだけ取るべきでなく
その人間に利用価値を見出し役割を与える事が
社会において理想的でもある

なので強い人間、不正を見極められる人間、歪んだ人間
というのは、脅威として排除されるよりは出来るだけ
秩序を守る警察のような役割や
狩人、医者等、その人に適した役割をになう事が望まれている
なお、現代では人それぞれの役割の種類が多すぎるため
ベストな役割というのは一概に断定できない

なんにせよ人には自分自身の個性に気づき
社会的になんらかの役割を担う事によって
社会に認められようとする生存本能が備わっている
そして、その役割、つまり解決できる問題を本能的に察知し
それをどうにかしたくなる、というのが人間の使命感
という感情と思われる

人間が根本原理として何を望んでいるかというと
本来は生き残る事だったかもしれないが
現代では、集団または個人が成長する事を望んでいる

この成長願望というのは
どんな謙虚な人であれ人間ならある程度ある

成長願望の根源としてあるのが痛み
この痛みを解消し、次は痛い目に合わないようにする
というのが基本的な成長システムといえる(逆に快感で成長する事もある)
理屈だけでは会得できない習慣や技も
痛みを経由すればそれに対応せざるを得なくなる
だからといって鉄拳制裁は好ましくない
その制裁が正しいかどうかというのは基本的に判別不可能だし
与えなくて良い痛みを与えるというのは誤解や復讐心を仰ぐからだ

結局の所、人間というのは他人を助けたがるし
他人に助けられたがる
そんなふうに出来ている
そして人が人を好きになるのは
大抵どこかに好意的な歪みを見出している場合が多く
人が人に依存するのもどこかしらその人の歪みに執着している事が多い

余談だが、笑いが発生するのも
なんらかの歪みを認知して
その事に愛着が沸くからと思われる

また、この歪みが無いというのは
つかみどころが無いという事でもある
そして歪みがなくなり、掴み所が無いほど人は強くなり
同時に孤独になりやすくもなる

痛みや学習によって人は強くなる
そしてその痛みや解決法が解るというのは
それだけやさしくなれるという事でもある
この、やさしくなる、というのが
強い人間が社会で生き残るための手段になる


最後に、私は現在
地球上で最強の生物は人間だと思っています
まず、そもそも人が一番地球を支配しているという
現実がなによりもそれを物語っていて
そしてその、人間もつ力というのが
五行を扱うのに最も適した体を持っている事だと思います
人間の体は五芒星の形をしていて
頭(木)右手(火)左手(水)右足(土)左足(金)
これらに対応した理にかなったフォルムをしているので
最終的に人間が強くなるには、人間としての力を発揮するため
五行のバランスを取る事が理想的だと思います

金剋木(ごんこくもく)金属製の斧や鋸は木を傷つけ、切り倒す
といのは、人(木)は刀(金)で切られると死ぬ
というような意味とも取れ

木侮金 (木の度が過ぎると金が負ける)
とい事については、
余りに大きい木はナイフでは倒せない、とも取れるが
木を達人に例えると
私はその達人を風と例えるのが妥当と思います
木行は風の意味もあり
風のような達人を相手にしていれば刀は空を切ってしまう

心でも似たような事が言え
豊かさ(木)を切り裂く価値基準(金)も
さわやかに受け流せるような風の境地になれば問題ない
と言うこと

木行を風として考えると社会現象としては、ブーム、流行
技の性質としてはスピード
と当てはめられると思います
けれども長くなりそうなので
木行については後々考えていこうと思っています

究極の人間関係と会話術

私は割と多分コミュ障です

そして今その原理を理解した気がします

 

まず、私はあまり言葉が苦手ではなく

より適切な言葉を選ぶ事ができ

それでいて推理力、考察力

洞察力もあるので

相手の気持ちも言いたい事も

良くわかります、というか解り過ぎます (やっぱ微妙

し発想の柔軟性もある方です

 

けれどもどうやらコミュ障です

 

この話に既についていけないか読んでいて疲れる人もいるのではないでしょうか?

 

そうです、正にこの部分が間違っていた

ようです

 

私がやってしまいがちなのは

子供とキャッチボールをして遊ばなくてはならないのに

野球の専門書で知識をつけ技術を見せているような事です

 

けれども子供とキャッチボールをして遊ぶとして、緩い球をただ投げたり取ったりすればいいわけでもなく

 

レベルを合わせる、と言うのも疲れてしまい

本来ストレスを減らす為の人間関係が

かえってストレスになってしまう

という現象を懸念せねばなりません

 

例えば、大学生のノリ、宴会のノリ

お祭りのノリ、そんなノリを続けていたら

確実にストレスが溜まります

耐えられる人はタフな人だけだと思います

 

会話術として、よく聞き上手になる

と言うのがありますが

どうやらそれだけではダメなようです

例えば相手が好きそうな話題を推理して

引き出したとします

とりあえず鍵は開けれたとして

その会話の引き出しを無闇にあけると

たまに興味のある話しも出てくるかもしれませんが、

延々とその話しを続けてしまい

結局耳が痛くなるだけでつまらなかった

と言う事がよくありました

 

この、引き出しを開ける、というスキルは

無闇やたらと使わない方がよく

知りたい時だけ小出しにするのがいいのかもしれません

 

そして、究極の人間関係とは何か

と言う疑問について

 

人間が多種多様である以上

当然確実な正解等無いでしょうが

 

より良い人間関係の共通点として

バランスが良く、話し過ぎない、

さらに言えば、一緒にいるだけで心地がよく

適度な刺激もある

と言う事が上げられると思います

 

なので良い人間関係を築く為に

意識していこうと思うのが

引き出しの開け閉め、

キャッチボールを理想とするのでなく

 

暑ければお互い自分のペースで団扇で扇ぎ合い、寒ければ焚き火で暖め合う

そんな関係を目指すべきだと思いました

 

なのであまり確信を突くような事や

センスのある笑える話し等、優劣を決められるような言葉では無く

 

時としてそよ風の様に、時として水風船の様に、時としてスーパーボールの様に

猫じゃらし、マーサージ機、ジャグジー

駄菓子、玩具のように、

たまにカッコつけたり

たまにコケたり

そんな会話を心がけるのが大事なのかもしれない、

と、まぁ真面目に語りました

 

 

ドラゴンボール社会学概論

概論の部分はカッコつけてるだけです

 

さて、なぜドラゴンボールなのか
それは
人間関係において理想的状態
というか、強くなり成長していく志を持った男にとって理想的な人間関係は
ドラゴンボールの悟空のようなものでは無いか
と言う仮説を思いついたからです

 

普通、強くなる、成長する
ステータスが上がるにつれて人は孤独になる
それは社会的に出る杭は打たれ
嫉妬され、頂点に立つ者は引きずり落とされるからだ、盛者必衰とも言う

 

けれども悟空はありえないほど強さがインフレしてるのに、バキの範馬勇次郎のように孤独にならない
悟空の生き方を説明する前に
まずは社会において嫉妬や出る杭は打たれる
と言う現象を説明しよう

 

誰もが足を引っ張りあい
実力が歪められる事はよくあり
確かに不公平で腹立たしくはなる
が、何事も腹を立てては理解できない

 

結論から言うと、
それが正しいかどうかに関わらず
そう言った一見無意味な批判
抵抗、落とし入れは社会的に必要である

 

正しいのに落とされるのは確かに悔しいが
もしそんな抵抗が無かったとしたら
どうだろう
人がやってる事が正しいかどうか
と言う判断はその人と同等かそれ以上の理解力と時間が必要になる
一々それを判断していたら
何かをしている人間は勝手に先に進んでしまう
判断しようがしまいが
思考と前進に一旦待ったをかける
防波堤のようなものが社会には必要になる

 

極端な例ではガリレオ 地動説がある
彼は正しかったのに時代がそれに追いつけず
彼は処刑されてしまった
かわいそ過ぎる人物ではあるが
もしガリレオが認められていたら
現代の歯車がどの様に作用しているか解らない


もしかしたら
ガリレオが認められてしまっていては
破綻の運命をたどっていたのかもしれない

別にそんな運命にはならないにせよ
社会、と言うシステムにおいて
真偽に関わらずとりあえず叩いておく
ファイアウォールが必要でそれが用意されている

 

この事は水と水槽の関係に似ている
水槽と言う否定、批判、常識
と言うものがなければ
人は自由になりすぎてしまい
管理ができなくなる
放任し過ぎると法律が通用しない
世の中が完成してしまうのだ

 

さてようやく悟空に話しを戻そう
彼は何を隠そう
その水槽をことごく追い越していき
それなのに人望が厚く
最強クラスなのに平等な人間関係を築いている

 

現実の社会でも似た様な雰囲気を持つ人たちがいる、全てではなく比較的そんな傾向にある気がするだけだが
それは中卒で成功している人達だ

 

悟空の生き方と中卒で成功する人の生き方は似ている、その共通点はようするに
型破り、と言う事

 

悟空は幼少期、最低限の言語と武術を学び
育ての親は早くに亡くなり
野生の世界でたくましく一人で生きていた
文明を知らず、文明に頼らず
幼少期の頃からそもそも一人で生きていける位強かった

 

そこで初めてブルマと言う少女に出会う
確かこの時悟空は13、ブルマは16才位だった気がする
ここで初めて悟空は女の人間に出会い
様々なタブーとお仕置きをされながら
女性と男性のあり方を学ぶ
社会的なルールにとらわれず
とりあえず自分で実行して反省して
人付き合いを覚えた
と言うのが常識人とは根本的に異なる点だ
つまり悟空は自らが実験台になって
トライ&エラーを繰り返し
自分が幸せになれる方法を学んで
いったのである

 

そんな生きた経験と
類いまれなる強さ、勇敢さを持ち
卑屈にならずに生きてきた結果
悟空は悟空にとってもっとも
都合のいい人間関係を築けるようになった
のである

 

それに比べエリートであるベジータ
良い人間関係を中々築けなかったが
悟空と関わるようになって
今は立派なパパさんになっている

 

最終的に物凄く単純な結論になるが
良い人間関係を築くには
楽しむ事
卑屈にならない事
少しだけ反省する事
なのかもしれない

 

悟空の場合
反応のレベル、つまりあまり考えないで
卑屈にならず、少しだけ反省する
そして根本的な思想として
自分が楽しくなるにはどうすればいいか
と言う事を常識にとらわれず
自力で磨いていった倫理観で判断している

 

彼に習うには
やはり自分をよく見る事
挑戦する事
そして楽しむ為に強くなる
と言う事なのかもしれない

 

かめはめ波を哲学する

この記事は

ドラゴンボールに出てくる必殺技

かめはめ波を考察して解明していくという

余興である


ぱっと見かめはめ波は光を放って入るように見える、例えば、ビームとかレーザーとか

けれども私の考えでは

かめはめ波は光こそ放って入るが光じゃない

波、と言う字で誤解してしまうのであろうが


光だとしたら軌道が見えるはずがない

かめはめ波は明らかに進んでいる事を

視聴者が認知出来る


結論からしておそらく、かめはめ波

プラズマ

そしてプラズマを発生させるだけでは

放出にいたらない


なのでプラズマを発生させ

それを極限まで圧縮させ放出させているのだろう、これなら10倍かめはめ波も説明出来る


そしてどうやってプラズマを発生させるか

彼等は気と言う概念を扱っている


ただ、別に扱える、操作できる物質が

気でなくても何であっても、

超振動させ

それを圧縮し放出すれば

かめはめ波は完成する

追記、

プラズマは電離によって発生するらしいので

必ずしも振動とは限らない

分子が引き剥がれる事によって発生するらしく、過去記事の離脱うんぬんの理論が関係してくるかもしれない


なんにせよ

つまり気とは

なんかよく解らないけど

動かせる物質

という事になる


その

なんかよく解らないものを

よりたくみに、激しく利用できるようになれば、かめはめ波が使える

と言う事


逆説的に考えて

人間がよく理解していて

それなのに上手く扱えない物を考えればいい


流石に結論を出すのは難しいようだ

けれども

たまに言葉を知っていても上手く扱えない

とか、何かに酔狂していて常人よりはるかに理解している

なのに上手く扱えない

そういう、言うなれば変わり者

と言うのは何処にでもいて

そう言った人は

何か妙な期待感を抱れるものだ


まぁ常識人にしろ変人にしろ

結局はコミュケーションに

何らかの摩擦を感じ生きている事に

変わりは無い


よく理解しているが

上手く扱えない

それは人間そのものかもしれない


つまりその逆を扱う技

おっとこれ以上は辞めておこう


なるほど、まぁそういう事ね