ペタの哲学部屋

私ペタ(ハンネ)、が哲学を自重せずに展開していくブログです

他人の人生は得体が知れない

他人の人生は得体が知れない


運命、天性とは何か

誰がどの様にして生まれ

どの様な道のりを辿り現在に至るか

人はそれを運命と呼ぶ

そして予め備わっていた性質の中で

特に優れたものは天性と呼ばれる


自分の性質、自分の辿った人生

それらは記録するか

あるいは記憶するか

または身近な人が語る等すれば

ある程度説明できる


ではもし仮に

人生の全てをハードディスクに記録し

多くの賢い人々がその人生について議論をしたところで

それが彼の人生だと呼べるだろうか?


どんなに精巧に再現した所で

表現されたものは実体ではない


古代ギリシア哲学的な意味での実体とは

得体の知れない神がかった何かとして

その問題について議論がなされてきた

そしてその考え方は宗教的な思想に分化している

実体は神の世界に存在すると唱える者もいれば科学的な証明が可能と唱える者もいる


実体とは何かと言う問題は底が深く

トドのつまり

実体が何かわからないのは

誰も実体を失った経験がないからだ

よくわからないがなぜか人は生きていて

存在をなんとなく自覚している


そんな人生と言う現象について

多くの物語やノンフィクション作品

あるいはリアルタイムでの出会い

人間関係を通して我々は他者の人生と

自己の人生についてその違いを学ぶ


当然、いい事もあれば悪い事もある

そして悪い事

嫌な事、苦痛については一見して幸福な状況より遥かに凄まじい破壊力がある


例えば一日を振り返り

夜が来るまでは最高に調子がよく

誰もが笑顔でくじを引けば必ず当たったとする

しかし夜がきたら交通事故にあい足を切断する事になったとしたら

ちょっとしたラッキーな出来事など帳消しになる


生物が負傷し苦しみを味わう事は

考えてもみればごくありふれた現象だ

フライドチキンが美味いという事は

殺された鶏がいたと言う事だ


そんな数奇な世界に住んでいると言う現実

その中で更に数奇なのが幸福だ


冷静に考えれば犠牲しか無いような現実で

どういうわけか人生では幸せを感じる事がある

そしてそれが他者の物である場合

自分が味わった事の無いような優れた境遇について語られる事がある


まぁなんというか

誰でも何か幸せで優れた存在を羨むものだ

多種多様な人生の中でも花のある人生は目立つ


だが自然界における花の数は

岩石や海水、その他の物体と比べ稀だ

ただ稀であり目立つと言う事

そして人間の何らかの欲求を満たし得る可能性を感じさせる物の事は

おかしみと呼ばれる

ようするに、なんかいい

という感覚の事


どうも現実というカオスに生まれてきた

思想を持つ存在として

藁にすがるように求めずにはいられない物が

この「おかしみ」なのだろう


命のある物体と命の無い物体

その中で命のある物体は稀で

その運命そのものが「おかしみ」

全ての生命が「おかしみ」であるのだから

何者であれ

その良さが活かされるに越した事は無い


現実と言うカオスの中

生きる上で必要になるのが

水槽の中の貝か何か

多分金魚は口から気泡を出さないと思うが

そんな泡沫のような「おかしみ」

それを生産し、あるいは単に尊む事が

生命の持つ本質的な役割なのかもしれない

例えば珊瑚や水草がそうであるように

形容の法則

形容の法則


巷では~の法則と言う言葉をよく見られる

そこでふと

法則とは何の事なのだろうと疑問に思った


学校で習う様な科学における法則とは

数式で表す事が出来て

周知の事実としてだいたい疑う余地は無い

物理的に多分その様になっているのだろうと思える

しかしながら~の法則と言う言葉は

これといって根拠らしい根拠も無く呼ばれていたりして

そう言った意味で法則とは

誰かしらが経験則から感じた規則性を定義付けた物

と言える


つまり、案外簡単に~の法則

と言う言葉を作ってしまっても問題無くて

フランクに割と好き勝手に~の法則と言っても良いのかもしれない


と、思ったので

何かしら適当に法則でも作るかな

と考えていた


そんな事を考えながら自転車を漕いでいたのだが

最初は確か

女子高生振り向きの法則

とかがよぎった

勝手な憶測だが

異性に対して目を合わせて来る女性は彼氏がいる場合が多いと思う

というのも、彼氏がいる状態だとその女性は自信がついて、他の男性を見る余裕が出来るからだ

つまり、浮気が出来る状態であるほど浮気をすると言う事

だが、逆に彼氏が居ない女性の方がむしろ

異性に対して消極的になり

結果として浮気もしないと言う事

物理的に考えると当たり前の事ではあるが

それだけでは無くて

精神的な問題で

例えば彼氏が居ない状態の女性と言うのは

実は妄想の中では都合良く見え方が変化する完璧な彼氏が居て

その幻想の彼氏に対して一途だから浮気をしない

しかし具体的に形のある彼氏ができると

急に他と比べ始め浮気をする

と言う現象

この法則性で考えると

いわゆる狙い目の女性はフリーでは無くてむしろ彼氏持ちと言う事になるのかもしれない


と、考え、世の中くだらねー

と思いニヤニヤしていた


まぁそれはさておき

こう言った法則は割とありがちで

次はもうちょっとひねった法則を作ろうと思った

何となく、箱をイメージしていて

自転車を降りなくてはならない細い通路を歩いていたら

角の結構手前から来たおばさんが自転車に乗っていて勝手にコケた


だいぶ手前だったので自分は何とも無いけど

しきしりに「すいません!すいません!」

と謝られ

まぁ、何とも言えない微妙な気分になって

「あ、、あぁ、いえ、、」と何とも言えない返事をして通り過ぎたら

今度は整備してたおじさんが

「あぶねぇよな、、」

とボソっと呟き

また微妙な感じで

「あ、、はい、」と返して

通り過ぎた


こう言う、別に何でもないけど

何かもやもやする

形容しがたい事ってあるよなー

と思いニヤニヤしながら自転車を漕いでいて


ようやく、形容の法則

と言う物に気がついた


この、形容の法則と言うのは

形容しがたい物事は審議にかけられやすく

結果として

形容可能な物事ほど形容される確率が高くなると言う法則

言うなれば、法則性の法則だ


この、形容の法則が物理現象なのかを考えると

実験として

何らかの物体が格納可能な箱A

質量や体積等が同等で格納不可能の箱B

それらが同じ条件にさらされた時

Aに物体が格納される確率と

Bに物体が格納されそうになる確率に

何らかの差が出るかどうかを想像した


冷静に考えて、多分差は出ない

パチンコの役物に蓋をした場合と

蓋をしなかった場合との差を調べる様な用量で実験出来ると思うが

役物に到達するまでの条件が同じなら

蓋が有ろうが無かろうが確率は一定と考えるのが普通


しかし、現実ではどうだろう

それが可能である物の方が

その条件も整いやすい傾向にある事は明らかだ

袋があったら、袋が袋として使われる確率は上がる

しかし、これは物理的な法則では無くて

人間と言う、精神を持った存在が確率を操作しているから成り立っている現象と言える


そしてこの可能である物ほどそれを可能にしやすいと言う法則は

人間に限らず、哺乳類~細菌類まで動物全般に言える事だ


動物もある意味では物体なので

物理法則として考えられ無い事も無い

その辺りにそもそもの確率と言う概念の危うさも感じ取れる


数式的な確率とは別に確率の概念を怪しくしている法則

それが形容の法則と言える


生物全般が何故か物事に意味を付けようとする性質があると言う事

それが形容の法則で

~の法則

と言う言葉もこの形容の法則で成り立ち

ありとあらゆる言語は形容の法則によるものと言える


要するに何が言いたいかと言うと

人は何かにつけて物事に意味をつけたがるって事

あらゆる社会現象をまとめると

それが形容の法則だからなのだ

と形容する事が出来る

哲学とは何か

哲学とは何か


フィロソフィー

知恵を愛すると言う事

今までそんなに気にしていなかったのだけれど

図書館でいわゆる哲学っぽい哲学

歴史について多少は心得ておこうかなと思って本をいくつか借りた

そしてまぁ、入門書的な類のはしがきとして

哲学ってそもそもなんだ?

世間一般人は哲学って何だと思っているのか

と言う客観的なイメージの説明から入っている場合が多い

そしてその究極の問いとして

「哲学って何の役に立つの?」

と言う質問がある

なるほど、自称一般人は

何の役に立つのか

そんな事を考えるものなのかと思ったが

それが何の役に立つか考える事自体が

既に哲学なのだと言える


哲学が無いと人は死ぬ

ただそれだけだ

死ぬのなら必要無い

生きるのなら必要だ


生かされている

と言う薄っぺらい虚栄心は

実は氷のように脆い

ふとした拍子に簡単に崩れ落ちる

そんな崩れ落ちた世界から生還するには

哲学をせざるを得ない


自らが自らの為に生きようと決めたら

考えざるを得ないのだ

そもそも「それ」や「これ」

とは何なのかと言う問題に向いあい

答えを出さなくてはならない


例えば、世界中全ての人が自分の敵になって

お前に生きる資格が無い

と言われたとする

ああ、そうかとそこで死ぬのなら考える必要など無いが

生きたいと思うのなら

そもそも、全てとは何か

敵とは何か、生きるとは、資格とは

と言う答えが必要になる

そしてその問題を紐解きさえすれば

生きるのに資格が必要だとか

世界中が敵だとかと言う荒唐無稽な否定が

てんでデタラメだと言う事が解る


そしてこの、現象を紐解き消化する作業が

知恵であり

人が人として生きると言う事でもあるのだ

世間一般人など存在しない

人にはそれぞれの名前

個性、考え方がある

ただ生かされているだけの

世間一般人と言う虚構の存在として生きるのなら

哲学は役に立たないかもしれない

けれどもそれはもはや社会の歯車でしか無い

何も考え無い機械か家畜と同じだ


考える事とは何なのか

何故生きているのか

何に苦しみ何に喜び

哲学、知恵を愛するとは何なのか

知性とは、愛とは

あらゆる事に疑問を持ち考える事

それをやめてしまったら

もはやそれは人は生きているとは言えない


では一見して何も考えていない他の動物が

哲学をしていないのかと言うと

それはそうとも限らない

哲学をしていると言う事は

魂の存在を感じていると言う事

形式的であるかどうかと言う事でも無い


哲学とは魂の学びそのものと言っても過言では無い

そして学びの無い魂は脆い

哲学不足だと理不尽からなる自殺願望に耐えられない可能性が高い


哲学は

役に立つかどうかと言う次元の話では無いのだ

愛と知恵を持つ事

それが生きると言う事で

知恵を愛する事が哲学

そうすると相乗効果で愛と知恵が膨らむ

それが生きて行く為に

最も合理的な思考プロセス

と言う事なのだ

生きる事に意味なんて無い

生きる事に意味なんて無い


では何故意味があると言い張る人が居るのか

その理由は

不公平な社会の中で偶々得られた幸福を

我が物としたいが為に

その幸福が妥当であると言い張りたいからだ

生きる意味があると言い張る事は

側から見て不公平な幸福が正当化されていると言う事


けれどもその事に対して正当性を主張するのにはどうしても無理がある

と言うより理屈として間違っている


例えば努力をしたり、実力があったり

善行を積んだりした所で

不公平が不公平である事になんら変わりは無いからだ


家畜は感謝されてもされなくても結局食われる

感謝したり努力したりするのは

あくまでこちら側の都合

不公平な理不尽の犠牲になる立場の苦痛が解消されるわけではない

言い訳と言うのはただの自己弁護であって

弁明した所で犠牲が無くなる訳でも

何か問題が解決するわけでもないのだ


生きる事に意味など無い

と言うのは何も悲しい事では無い

むしろ実は意味があると言い張る事の方が悲しい事だ


意味なんて無いから自由であり

生きたいから生きる事が出来る

そう考えた方がよっぽど優しくなれる

物体と宇宙の誕生

物体と宇宙の誕生


物体や宇宙はどうやって誕生したのだろう

と言う素朴な疑問

それについて考える


何か特別な啓示があったとか

宗教がどうとか

悟りを開いた

と言う話ではなくて普通に考えた

しかし考えながら書くからあまりまとまらないかもしれない


まず、無空間を考える

物質が誕生した場合

物質が誕生する前は何も無かったと言う事になる


とその前に

物質が元々あったのか

あるいは誕生したのかと言う疑問もある


誕生したかどうかはともかく

元々ある

とはどう言う事なのだろう

なんの切欠も無しに

有空間(物質が存在する空間)

がただただ始めから「ある」

と言う事があるのだろうか

その場合を仮定すると

絶対的に由来を調べる事が不可能な物質

又は空間

つまり過去が存在しない時空があると言う事になる

なぜあるのかは

絶対に解らない事になっている空間があった

となると

これと言ってその先に考える事も無いかもしれないが

あるいは、それが無空間から物質が誕生する事の切欠になっている可能性もある


と、言うわけで無空間に話を戻す

ここで言う無空間とは

本当に何も無い空間の事

物質も時間も無い

時間とは何かと言う事を考えると

時間は物体と物体の運動速度を比較した概念だと思われる

だから物体が無いと時間も無い

そんな無空間に突如、物質が発生し

それが宇宙の誕生だとすると

何故、物質が誕生したのかと言う疑問が湧く


何かが無いと言うのは

何かが有る、と比較し

有るでは無い、と言う事

つまり、無空間が無空間で有るためには

物質が存在する空間が無くては成り立たない


無空間から物質が生まれるのは

現象そのものを肯定する為とも言える

矛盾こそしているものの

その矛盾を肯定する為に

一つの嘘を隠す為に無限に嘘をつき続け無くてはならない様にして

無から有が生まれていると思われる


ただ、この時点でも思う疑問として

矛盾、有空間、無空間

と言う概念はどんなに考えても

それは言語である事に変わらないと言う事

となると

ただ始めから「ある」理論の方が正しいのかもしれない

つまり、言語化も可視化も抽象化も

人間の能力ではどんな科学を使っても

解らない何か、があったのかもしれない


とは言え、

無空間から物質が生まれるロジックは何となく解る気がする

無空間の話しを進めると

矛盾を解消する為に

無空間から何かしら物質が生まれた

とする


ここでたった一つの何か(A)が誕生したとすると

また疑問が湧く


たった一つって何だろう?


一つと言うのは何かをまとめて考えた概念

つまり、完全に一つの物質

と言うのも矛盾している

だからAは一つのようで

実は沢山の何かが集まったA

と言う事になる


物質Aの中に小さな物質abがあったとする

一見して同じ様な物質であるab

そして元々無空間から誕生した物質の周りは

無空間で

時間も無限に存在している

なので、abの運動速度がほんの少しだけズレているだけで

その運動速度の差が永遠に広がる

その中で憶測でしかないが

速い方が光の状態になって

遅い方が闇の状態(又は重力波)になった

と思われる

そして他の物体のは

速い現象と遅い現象の影響を受け

その影響度によって物質の性質が変わり

多様性が分化していった

と言う事では無いだろうか


何せ時間が無限にあるのだから

影響の差が少しでもあるだけで

性質の差は大きく分化する


ここでもう一つ気になる点として

現象が矛盾を解消する為に

多様化する現象

と言うのがそもそも何なのか

と言う疑問も湧く

矛盾の有る無し

と言うのも人間の感覚的な物で

正しいと思っている現象は別の所から見ると矛盾しているかもしれない


そんなこんなで

今、人間が感じている時間軸と

逆に進む時間軸とか

五感、六感で感知できない何かとか

あったり、無かったりするのかもしれない


生まれてきた事は

大きな流れで見ると

川の流れの中に木の葉が落ちて

くるくる回りながら流れていく事に似ている

どこにたどり着くかは最後まで解らない

岩壁みたいな所にひっついてるかもしれないし

雨が降ってまた流されるかもしれない

どこでどう流されるかによって

感じ方も考え方も変わる

大事なのは今何が解り

何を感じるか

と言う事でまとめとする

生きる遺伝子

生きる遺伝子


自分がなぜ生きるのか

それを決めるのは自分だ


昔から生かされていると言う言葉が嫌いだった

なぜなら生かされているのでは無く

自らが生を選択して生きていると言う自覚があるからだ


生かされている、と言う言葉ほど身勝手な言葉も無い

なぜなら

今まで自分が食べたくて食べてきた動物達の命の量が計り知れないほど多いからだ

生きると言う事はその屍の上に立ち尚生きると言う事だ

それを、やらされてるみたいな言い方をしたら牛豚畜生の亡者達の魂が浮かばれない

ふざけんなと怒られる

強く生きる事

食う、と言う事は強くなると言う事

その意思を持つ事以外に魂が報われる事は無い


なぜ生きるのか

と言う答えは

生きたくて生きていると言う事に他ならない


遺伝子の底に眠る本能は極限状態で現れる


私の祖父は軍人だったらしい

海兵をしていて

潜水艦に魚雷が当たって沈没したらしいが

傷だらけになりながら何時間も泳いで

どこか別の国

たしか中国にたどり着いたらしい

そこで2年位生活していたらしいが

終戦後の日本では死んだ事になっていたらしい

そんな最中2年後に死んだはずの人間が帰ってきて

その時のゴタゴタで

記録上の生年月日を書き変える際

なぜかサバを読んで若く登録してしまったらしく

年齢的に兵役していない事になってしまい

手当が貰えなかったらしい

しかし祖父は生きて帰ってこれたのだから別にそれでいい

と言うスタンスで

もう祖父はベットで亡くなったが未だに手当は貰えていないらしい


戦時中には、国の為に死ぬ

と言う集団催眠的な洗脳が反映していた

そんな最中

祖父は自ら生き延びると言う選択をして生き残った


自分もその遺伝子を引き継いでいる

なんとなく死にたくなる時はある

どうしようもなく苦しむ時も

今は頭が痒くてイライラする

それでも心の底には何があっても生きる

と言う誓いがある


祖父との記憶はほとんど無い

父方の祖父で父の実家に帰る事は滅多になくて、車椅子でひょっこり顔を出した事が

薄っすら記憶にあるだけだ

それともう一つは病院でもう長く無いと言う時に父と一緒に見舞いに行った事

その時は既に意識が朦朧としていた


けれども

極限状態で現れる生きる本能

その血筋を感じる事がある


キン肉マン2世は私のお気に入りのヒーローの一人で

普段はふざけていて平和主義

軟弱な側面があるが

ここぞと言う時に肉の紋章が燃えるように浮かび上がり

火事場のクソ力を発揮する

1世の場合は初めから肉の文字が書いてあるが

2世は本気になった時に

ぶぉー!と肉の紋章が出てくる

あれがカッコいい


よし、ハッスル!マッスル!

憎しみとは

憎しみとは


憎しみとは

怒りの発散を抑圧された状態の事


特に興味の無い人間に憎しみは持たないと言うわけでは無い

なので別に

憎まれる人間が愛されているわけでも無い


例えば、痛みとは何か

苦しみとは何かと

負の感情について考えた時は

自らがその立場を実感した上で客観視しなくては判断が出来ない


自らが痛みを自覚せずに他人の痛みを客観視した場合

ただ単に、痛いと言っている

痛そうな顔をしている

と言う類の情報しか入ってこない


何事も状況を多角的に判断し

論理的に分析しない限り本当の答えは出ない

今現在の自分の感情や状態に支配されていた場合、答えは別の物になってしまう


例えば、今雨が降っていて気持ちが沈んでいたとする

その感覚のまま

誰か別の国の人に

「今生活に困っていて不安で一杯だ

どうすればいいだろう」と相談されたとする

そんな状況だと大抵の人は

今目の前で降っている雨に影響された答えを出す

「不安は誰にでもある

今日雨が降っているけれど

その内晴れるのと同じで時間が解決するだろう」と

でも実際、別の国では雨が降らなくて困っているのかもしれないし

そのての自然現象とは何も関係ない事が問題かもしれない


何が言いたいかというと

現象の因果を探るには

それに影響しているノイズを取り払って

考えないと安定した結論を出す事は出来ないと言う事

実験環境がバラバラだと答えも変わる


その上で憎しみとは何か

と考え

誤った結論を出してしまう理由は

憎しみと言うカオス、混沌の渦に飲み込まれてしまった当事者がそのまま結論を出すと

不純物が混ざった結論になるからだ

本当の事が知りたかったら

一旦無菌状態で細かく調べなくてはならないと言う事

そして実験の準備さえ整えば

結論を出すのはそう難しくもない


憎しみとは

怒りの発散を抑圧された状態の事


怒りとは理不尽に対する正当性を主張しようとする本能の事


愛情はあまり関係ない

自己愛故に憎しみ怒るわけではない

別々の機能ではあるが

脳の神経が繋がっているから判断を間違える

と言う事


怒りや憎しみの正体は

人間に備わった基本機能の一つに過ぎない

その性質を理解しないまま抑圧すると

弊害が起こる

怒りを抑圧した結果は憎しみで

憎しみを抑圧した結果は自虐に

と抑圧を続けた結果

人は呼吸すらままなくなりやがて窒息する


脳や体は酸素を必要としている

理不尽な状態、痛みがある状態では

より多くの酸素が必要になる


溺れている者には空気が必要だが

それを溺れている者に流暢に説明してもらう事も出来ないし眺めていても助からない

かと言って焦って手を差し伸べると

引き摺り込まれてしまう

しかし

落ち着いている時に縄を作っておけばそれを使える


理屈の仕組みは大抵シンプルであるが

状況が悪化するとその事すら忘れてしまう

油断大敵

人生の苦しみはまったく油断も隙もない

何度でも騙されてしまう