ペタの哲学部屋

私ペタ(ハンネ)、が哲学を自重せずに展開していくブログです

幸せとは何だろう

幸せとはなんだろう

そもそも生物は幸せになる必要が

幸せを求める必要があるのだろうか


虫が捕食し交配する事は

幸せを求めてのことだろうか

草が水を吸い光合成をするのは

幸せを求めるからなのだろうか


幸せとは人間が定義した感情の一つに過ぎない

その感情をより根本的に中心によると

そこにあるのは本能だと思われる


つまり幸せとは本能の一部を定義した感情であり不幸もまたそうである


本能が中心にあるのならその右斜め上くらいに幸せと言う感情があり

その対角線に不幸と言う感情がある

そしてその周りには他にあらゆる感情がある

しかしどれも根本的には本能から分岐した

氷山の一角を定義して判断したものに過ぎない


言語的に幸せであるとか不幸であると区別したものは

本能がアメーバの様に複雑に変形したものを

憶測でその定義が適切であると判断し言葉で言い表しているだけなのである


人間には定義された感情が多数あるが

それらが機能する必要性はあるのだろうか


本能と言う核があり

その周りに定義された喜怒哀楽の感情がある

本能はおそらく成長や運動を望んでいて

感情をどこかしらに動かしたがっていると思われる

本能は死なない程度に色々試しながら成長しバランスを取る事を本質的に求めている

つまり本能はその生物が成長と生存する為に備わったプログラムと言える

よって

幸せと言う感情を求め続けるのは

かなり偏った運動と考えられる

感覚的に右斜め上にある幸せと言う感情を求め続けると

左斜め下の不幸と言う感情が反作用で活性化する


それらを自覚した上で

感情の自覚がクリアである人もいれば

不透明な人も居る

人と人は他人の不透明な判断に影響され

ストレスを溜めたり、押し付けあったり

あるいは友好的になったりする


幸せや不幸と言う概念すら

誰かが定義した言葉に過ぎない

しかしながらその言葉に影響され

本能がそれらしい形を作る


今不幸であるとか幸せであるとか

幸せになるにはどうすればいいか

と考える事自体が

本能が定義に踊らされているだけなのだ


一度感情定義から離れた本質的な本能と向き合えば

疲れるなら無駄に踊らず休むべき時に休み

ふと感情を動かしたくなったのなら動かして見ればいい事に気がつく