ペタの哲学部屋

私ペタ(ハンネ)、が哲学を自重せずに展開していくブログです

今の私の死生観

人間は遺伝子等の情報で紐付けされた

有機物が結合した情報体でもある

脳を含め肉体を構成する物質は

遥か昔から存在していた物質で

自然界の流れで巡りに巡って

今ある形に集合し存在として自覚している

遥か昔

原始時代に原始人が居た事や

恐竜が居た事

そう言った知識は歴史によって常識として知らされる

本当に気になって知りたくて知った訳では無い

だから知らなかった場合何を感じて生きて居たのかも解らない

けれども何となく感じるのは

多分そんな前提知識が無くとも

昔は原始人で豊かな自然があった事や

獣達が血で血を争っていたであろう事を

ある時には感じる物だと思う

言うなればそれは

前世の記憶と言っても過言ではない

占い的な前世のように農家とか偉人

と言う次元の話では無くて

もっと遥か昔から有機物として存在したであろうと言う感覚がある

食って食われてを繰り返し

生と死を繰り返し

大量の血を流し

寒空に晒されて灼熱に晒され

それこそ壮大な争いが過去から現在

未来にまで繰り返されているのだから

そう言う事があった

と言う事実は本能が覚えている

その

自分が何らかの有機物であったと言う感覚を

人間らしい形で再現すれば

人が人に生まれ変わると言う感覚にもなる

死後の世界を考え

死んだ後どうなるのか

と言う事を考えると

全くの無だ、と言うのは自分の感覚とは少し違う

要するに質量保存の法則で

物質が消滅しないで変換されている事が

常識的に解る事なので

何と言うか

今生きている中で垢とか代謝とかで

肉体の一部が日々形を変えていて

人と人や人と動物や植物

と言うのがそもそもにして循環している物で

有機物が特定の形で集まっていて

それが個として認識されているだけで

地球全体の物質も含めて自分だと言える

要するに

自分、魂と言うのは情報やシステム見たいな物で

その情報は上書きやコピーが出来て

大事な物や命、思い出、過去、未来

それが既に自分の魂の一部として分散しているとも言える

天国や地獄がどこにあるか

と言うのは常識的な範囲の自分が死んだ後の地球にあると考えるのがしっくりくる

小さな動物や植物であっても

それらがバランス良く調和し

幸せな世界なら天国だし

残酷だったら地獄だ

何にせよ

生き物を労わり幸せになると言う目的は

生きてても死んだ後どうなったとしても変わらない

ちなみに

地球が天国や地獄であると言う仮説

と離れて見ると

生命としての情報体が一定の統合性を失った場合、つまり死んだ場合

それでもどこかに天国や地獄があるとするならば

何らかの反物資的な霊のような概念が

別の次元に転移する現象を確認しなくてはならない

そこで、別次元

と言う言葉の捉え方の違いが出てくる

今まで思いつかなかった様な事が出来るようになる

と言うのもある種の別次元と言え

物理的、科学的な意味での別次元

と言う言い方と

本質的な意味が同じである可能性もある

別がどう別でどの別と別で

別別別ループになる

ループ文はプログラミングの基礎で

人間もそんな感じで頭がループしてる


上記の文章を書いた後に

人はどこから来てどこに行くのか

と言う問題で

ふと別の見解を思いついた

どこから来たでも行くのでも無く

そもそも物体には

何らかの形を作りその状態を

保とうとする性質があると言う事

磁石の粒が散らばっていたとすると

一つ一つの磁石はまとまって一つの大きな塊になる

そして磁石がくっつくのは

磁石が磁石の機能を発揮する条件が必要になる

全ての物質は特性が異なる磁石のような性質を持っていて

地球の様な条件が整うとそれがまとまって

結果的に今の状態になる

地球は

大きな宇宙の歴史と共に変化し

その変化が生き物と言う種を育てる畑の様な役割を果たし

その最中、脳を持った生物が誕生した

物体だった物が意思を持ち

動物になると

今度は選択権を持つ様になる

そしてその選択の連続が

状況に適応する為の変化を促す

意思を持った存在が増えると

意思そのものが環境になり

人は現実から想像の世界に居場所を広げ

想像の中で生きていける様に変化し

その世界に適応して行く

その中で人は自分と言う個を保とうとする

つまり、

基本的に死にたくないと考える

生きている何かであろうとするのは

それが物体の性質だからだと考える事が出来る

動物や人間としての形

考える力が無くとも

そもそも物体が何らかの形を作り、状況の変化に応じ形を保とうとしているから

必然的に人間は産まれて来ているとも思える


そこで、では何故

物体に形を作ろうとする性質があるのか

あるいはそんな性質は無いのか

あるとしたら

何故そんな性質を持っているのか

と言う疑問に行き着く

ヒッグス機構の

自発的対称性の破れ

と言う説が浮上する理由は何なのか

と言う疑問に行き着く

物体は細く、小さくすれば小さくする程

安定性を失う

消しゴムは建てる事が簡単だが

尖った鉛筆は倒れる

質量のある物体は何故か何らかの形を作ろうとする

宇宙空間で重力の影響から離れた場合

少しの力で推進力が維持される

物体が動いているのだから

はじめに動いた何かがあったのかもしれない

そこでビッグバンが想像出来るのは自然な流れだが

動きとは何かを考えると

動きは物体では無い様に思える

別の次元の何かだと考えれば

多次元がどうとかって話に繋がる

動きが無かった物に動きが発生する事が

いわゆる時間移動の一種で

死体とて完全に停止しているわけでもない

物体が存在する理由と

動作が存在する理由には何らかの繋がりがある様に感じられる

例えばビッグバンに話を戻し

ビッグバンは物体が爆発的に発生する様な現象で

その裏側の次元では時間が同時に発生又は消失している様に思える

となると

次元の消失が同時に別次元の発生になっていると考えられる

では仮に

全ての理がコインの裏表の様になっているとして

形式的な意味でなく

完全に裏でも表でも無い状態があるのかどうか

と言う疑問が湧く

対になる何かが存在しない空間は

理論的にあり得るのかどうかと言う疑問

どうもその様な構造は理解不能の様に思える

物体の対となる時間も無い

反物質でも物質でも無い

無いでも無いしあるでも無い

無いが無いしそれも無い

と言うループを終わらせる事が果たして

意思を持った存在にあるいは意思を持たない存在に可能なのだろうか

となると

死んで無の世界に行く事の方がむしろ不可能に思える

とは言えどのみち

そもそも何も無いよりは

なんか楽しい方が好きだ

春眠暁を覚えず

眠るのは気持ちがいいが

それは無では無い

でも苦しいのは嫌で

まぁその辺は普通だ

そんな感じだ