ペタの哲学部屋

私ペタ(ハンネ)、が哲学を自重せずに展開していくブログです

因果関係の真意

因果関係の真意


因果応報は

点でなく線で起こる

そして線が無数にある以上

因果関係と言う概念自体が虚構になる


不平不満とは

平等でない事への不満であり

因果応報がそもそも機能しない線に居る事

への嘆きだ


個人その物と境遇を含め環境と仮定して

場の法則を線と例えると

平等に機能する線と

機能しない線とがある


原因を点で見た場合

因果応報、原因に見合った結果は返って来ない


例えば水を作る力を持ったABが居たとする

山に居るABと同じ様に水を出すが

川に居るBよりもずっと多く報酬が手に入る


BAの存在を知ったとしたら

自然な流れとしてBは不平不満を言うだろう


一人一人の人生その物を環境と考えた場合

因果応報の真意は崩壊する


原因と結果の法則と言うのは

客観的に明らかな再現性のある反応において適応出来る


人は境遇や環境の差異がバラバラである以上

同じ実験結果にはならないと言える


薬品Aと薬品Bを混ぜると危険な事が

充分な再現性で明らかだった場合でも

それを知る事が出来たかどうか

と言う差異は発生するし

あるいは偶々その危険性を中和させる

薬品Cが散らかっているかもしれない


何かしらの結果があったとして

その原因を探す場合

原因は自分が何かをした

と言う場合だけでなく

周りに散らばっていて

自分ではどうしようもない事がある


だから当然、望ましい結果を得られず

その原因が環境にある以上

不平不満を言い

自分が望む結果が得られる条件を望む


だが、自然界は元々不平等な事が当たり前

そして人間は一部の人種が平等に暮らせる様に他の種族を差別し

限られた範囲での平等を手に入れてきた


動物が人間に対して不平不満を言い

デモ活動をしているかどうかは知らないが

人種や境遇の違いによる不平不満は確実に出ている


そもそも、平等や不平等とは何かを考えた時


例えばボクシングで

一人だけ木刀を使う事が許されていたら

明らかに不平等だ


ボクシングにはボクシングのルールがあって

細かい技術等ある程度の不平等は仕方がないが

ある程度平等な中で戦う事に

どちらが勝つのか?と言う

実験としての価値がある


賭け事で考えても

オッズがかけ離れすぎていたら

賭けは成立しない

野球投手が投げる球と

銃弾のどちらが速いか

と言う賭けをしたら

銃弾のオッズは1倍で

投手に賭ける金は寄付金になる


人々の人生を豊かにしたいと思った場合

どっちに転ぶか解らない

ある程度オッズが均等になる

平等な居場所、カジノが必要になる


では、具体的にどの様な居場所が

足りないのだろうか?

と言う話しをした場合

発生してしまう矛盾がある


それは

要求を持って居るのは少数派で

決定権を持って居るのが多数派である

と言うロジックだ


選挙なんて多数派のお祭り事だ!

なんの意味も無い!

と叫んだとある都知事候補者を知ってるが

確かにその通りなのだ


格闘ゲーム

ギルティギアシリーズで

絶対確定世界

なる概念が登場するが

これはもしかしたら

因果応報が必ずノイズ無しで確定する

と言う空想の世界なのかも知れない


まぁ、全世界を完全平等にする等と

大それた事を望まなくても

何かしら

平等に戦い、相応しい報酬や結果が得られる場所は多くて解りやすい方がいいし

扉も入りやすい方がいい


その点スマホゲー等で見られる

無課金制と言う発想は素晴らしい

結局は課金した方が強くなれるとか

得られる報酬が虚構だったりする点は不満だが

文化繁栄のシミュレーションとしては

面白い試みかも知れない


後はもっとリアルな空間で

無課金制の神ゲー見たいな場所が増えればいい

例えば極論を言えば

ホームレスでも演説や演奏が面白ければ

チップを稼げる会場とか



結果的に勝ち組になれれば

不平不満も減るので

個人的には上手い事行けばいいが


負け組として不平不満がある以上

平等や倫理について考え

発言する事を課せられて居る