絶望について本気出さず考えて見た
絶望的な状況だと
他人の苦労話とか方法論がクソみたいに思えてくる
絶望にも幸福にも
原因と結果があると言えるが
悪い結果が誰のせいなのかは解らない
少なくとも自分だけのせいでは無いし
特定の誰かだけのせいでも無い
あらゆる環境的要因が相互作用を引き起こしてそれを何らかの結果として自覚している
ようするに
なっちまった事も
なっちまう事も仕方がない
なら考えるべきは
今どうすれば少しでもマシになるか
と言う事
怪我してて不健康で辛い人が
健康的な人に
アドバイスを求めたとして
健康的な人が毎日走ってたら
真似するべきかと言ったら
明らかにやるべきでない
ただし絶望的な状況の人は
藁にもすがる思いで
自分とは違う状況の人の真似をしようとしてしまう
仮に足が骨折してたら
大人しくしてるべきなのは明らかだ
なのに文章や方法論には需要があって
人は誰かを参考にして
問題を解決しようとする
重要なのは
特定の方法論でなく
何が参考になって
自分に何が出来るかと言う事だ
よく走る健康的な人をAさん
絶望的に不健康な人をBさんとして
不健康なBさんは足が悪い
だから健康なAさんのように
走れば健康になる訳ではない
では健康なAさんは何故健康なのか
と言う原因とは
Aさんがよく走るからと言えるが
その事はBさんの問題解決と関係ない
じゃあBさんはAさんから何を学べばいいだろうか?
AさんとBさんはまるでかけ離れている様に見えるが、実はそんな事無くて
共通点がある
同じヒト属のホモ・サピエンス
と言う点だ
しかし
同じ種類の動物ではあるものの
運動能力や学習能力、境遇の違いが大きい
解決出来る事もあれば出来ない事もある
BさんはAさんの様に走れないが
Aさんがする様に呼吸したり
何かを見たり
手に入るなら同じ食べ物も食べれる
ただ、健康的なAさんの真似をしていれば
健康的になれる保証はどこにも無いし
Bさんには適応しないかもしれない
ではBさんがすべき事は何か
それは、Bさんに適応する方法を実行する事だ
人類と言う大きな枠組みの共通点から
さらに絞ってBさんに適応する方法を見つけ出す必要がある
ピンポイントにBさん専用の
とっておきの方法を見つけるのは
難しいかもしれない
でも解決法が見つからないままだと
絶望してしまう
それが難しくても人類に共通する
出来る事は見つけやすい
共通しているのは
呼吸や食を必要とする事や
目鼻耳口腕足がある事
場合によっては何か欠けてるかもしれないが
何かしら使える機能はある
出来る事をやっていれば
何かしらマシになったり
上手くすれば
出来なかった事が出来る様になる事もある
Bさんが挑戦して
Aさんの様に走れる様になれなくても
Bさんは元々走れないのだから
それ自体は損はしていない
その過程でちょっとマシになったら
その分得している
例えば絶望してる人がこれを読んだとする
あるいは自分が絶望していたから
この記事を書いていたとする
実は既に得していて
その絶望的な時間を暇つぶし出来ている