ペタの哲学部屋

私ペタ(ハンネ)、が哲学を自重せずに展開していくブログです

金と愛の倫理

大切なのは愛か!?  それとも金か!?

 

関係ない人にとってこの疑問は
くだらなく、どうでもいい事と思うだろう
そういった人にとっては単純な事で
「どっちも必要」でいいじゃん、はい終わり
と考える
でも私は無関係者だからこそ冷静に、
趣味として考える事ができるのかもしれない

 

金と愛問題における無関係者はなぜそこまで淡白なのか
まずはそこから考える

金と愛問題は釣られた魚の話で例えると解りやすい
釣り人が魚を釣ったとする
無関係者はそれをみて、魚に対して強く同情しない
しかし釣り人は気分を良くし、時として魚を哀れむ
そして魚は物凄く苦しむ
金と愛の問題は人と人との間で
釣り針は金、そしてそれに引っかかる魚という愛の感情が苦しむ
問題と言える
魚の立場になってしまっては冷静になるのも難しいかもしれない

 

次に倫理について考えよう

倫理とは何か、それは正義とは何かを問いただす理の事だ

魚が泳いでいた、魚は生きていて色々やっている
魚は正義でも悪でもない
ここまでは単純だ
そこに釣り針が垂らされると急に倫理がややこしくなる

 

ここにカップルが居たとしよう
二人は愛し合っている
ここまでは問題ない

そこで一方が別の誰かを愛したとする
ここで問題は発生して
日本は一夫多妻が一般的でなく一夫一婦が一般的だ
という常識や感覚に引っかかる
なので当然の感情として
大切なのはどっちなんだ?はっきりしろ!と思う
そこではっきりとお互いが決断できれば問題は直ぐに解決する
この状態も、まだ単純と言える
素手で魚を捕まえているようなもので
手放すのも簡単だ

 

次に金が絡んでくると倫理は急に複雑になる

まずは金の性質について軽く述べる
金とは価値の事で、価値とは物事の正当化だ

正当である、という状態は他と比べ負けない
強い、という事で
金属で出来た釣り針は魚の肉よりも硬く強い
だから魚は釣り針の餌食になってしまう、と言う理だ

 

金と愛問題は
愛し合う二人、という常識と
金を使う、という常識が同じ精神世界のフィールドに居る事で発生する問題だ

愛、金、そのどちらも常識によって正当化されているので
その二つの強力なエネルギーは時として絡み合う

 

具体的な例を出す前にもう一度
倫理とは正義と悪、について考えよう

 

完全正義、完全悪について考えるのは範囲が広すぎる
なので一定の範囲で制限して考える必要がある
実験で検証する為に地球全体を実験対象にするのは無理がある
なので区間を狭めてシャーレ内で観察する事になる
シャーレの内壁は法の範囲と考える
微生物にとってのシャーレは人間にとっての法と考えれば充分だ

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↑、シャーレはこんな感じの実験器具

 

法を基点にした考え方だと、法の逸脱が悪になる
しかし、正義までは説明できない
法は悪が許される範囲かどうかを示していて
正義に相当する報酬は暗黙になっている
なので、悪とは何かは憲法や法律、常識で計れるが
正義とは何かという問題は個人個人の意志に委ねられる

 

正義が発生する元は「正当化」
という概念だ
金を稼ぐ事、金持ちである事
ルックスが良い事、才能がある事、人気がある事
こういった優れているように見える物事は
人々の暗黙の了解で正当化される
しかし、真実はそれが本当に正しいかどうかは解らない
正当化にも寿命があって
時と状況の変化で意味を持たなくなるが
考え続けるのは大変なので
人はそれが真実かどうかとは別に考える事を止めて
とりあえず盲目に何かを信じる

 

つまり正義について考えると果てがないが
悪については法を基準に定める事ができる
光を光で照らすよりも闇を見つけて照らすほうが簡単だ

法を元にした悪の定義は簡単で
犯罪は明確な悪で、犯罪にならない悪は
それだけ犯罪に似ている行為という事になる

具体的な例をだそう

 

風俗行為は悪か否かを考える

日本ではよく、こういった行為はグレーだ
と言われる、
つまり日本人の感覚では何か黒い物が混じっている
という事で
犯罪行為を稀釈した物が含まれている
その稀釈された犯罪行為を濃くしていくと出来上がる犯罪
それは売春買春、人身売買だ
そもそも人身売買が悪い事かどうかを考えると
ならばもっと濃くしてみると今度は奴隷制度になる
ここまで濃くしてみれば流石に悪だという事も解りやすい

なので風俗行為は悪だ
取りあえず罰に値しない程度の必要悪
という解釈が一般的だ

なぜ「必要」という白い正当化された部分が混じっているのか
正当化されている部分は金だ
金を稼ぐ事と使う事は暗黙の了解で正当化され
人々は金を正義と錯覚している
錯覚する人が多ければ多いほど
相対評価では錯覚していない人が間違っている事になり
間違っている人が増えればそれが脅威になり
間違っていても正しいという事になる

では金が正当化されているので金が絡むと
倫理はややこしくなるという事になる
金には正当化という悪を稀釈し歪ませる力があるからだ

 

では、金が絡まない性行為は悪だろうか
この事は決め付ける事が出来ない

なぜなら私たちの命は性行為によって産まれてきたからだ
正当化されているのは命の価値だ

しかし
生物の誕生はそれと同時に生物の死を表している
そして産まれてくる命が発生を望んでいるかどうかは定かでなく
産まれてくる時代や場所が幸せとは限らないし産まれると必ず死ぬ
必ず死ぬという時点で命の誕生は殺人罪を稀釈した成分が含まれるという事だ
また、産まれてくる命が悪人になるか善人になるかも解らない
時間がたってみれば結果的に重大な悪行をするかもしれないし
善行をするかもしれない

結局の所人を誕生させる行為が悪か否か
という問題についても
悪の要素は必ず含まれているという事になる

なので性行為も悪だ
ただし、稀釈された白い部分は命の重み
という法や倫理における最も価値の高い要素という事になる
善悪、法、倫理がそもそも命の為にあるので
命を正当化しない訳にはいかないのだ

では最後に、金か、愛か
という問題は本当はどうでもいい事ではなく
むしろ人生の根本とも言える大問題という事になる
金で買える物は余りにも多い
何事も金さえ払えば出来てしまう

思わせる事を
闇雲にに正当化されているのが資本主義の闇と言える

本当にシンプルでいいのだろうか?
こんなに大事な事を本当に考えないでいいのだろうか?
考えずに大きな枠組みを盲目に信じ
従う事で失う時間は帰ってこない

なり

ならばか?

過去未来が買えるのか?

金を正当化する事を辞めた時に見える物
その複雑な芸術が愛なのではないだろうか