ペタの哲学部屋

私ペタ(ハンネ)、が哲学を自重せずに展開していくブログです

宮本武蔵になりたくない

 

五輪書の解説本を少し立ち読みした
そしてその一部分だけ読んで
今この本は読みたくない、と思った

ざっくりとどう言う内容かと言うと


武蔵曰く兵法は勝つ為にある
そして出世する為にある
その為には他者より優れた部分を示す必要があり
自称武芸者が大道芸をするのは生兵法は大怪我の元だ
と言った考え

 

宮本武蔵と言えば英雄視されがちとは言え
はっきり言って殺人鬼だ

吉岡道場の50人対一人で勝ったと言う伝説があるが
要は道場稽古の偽物の剣術では
本当に人を殺し続けた狂人に敵わない
と言う事

 

さて、では本当に宮本武蔵はただの殺人鬼だったのだろうか?

この世には「ただの」殺人鬼は居ない
衣食住、人間的な部分も当然ある

 

彼は仏像を掘った
その辺りに人間性を感じる

 

何故仏像を掘ったのかは容易に想像がつく
、それは罪を償う為の儀式だ

 

彼は大量殺人を行い
その罪悪感から逃れる為に仏像を掘った
しかし実際、仏像を掘った所で
当然、死者が報われるわけでは無い

 

映画「皆さま、ごきげんよう
に出てくるシーンで
戦争で散々好き勝手悪事を働いた兵士達が
キリストの洗礼の儀式で罪を償い
平然としている描写があって
信仰心を痛烈に風刺していた

 

祈って水かぶってハイオッケー
なんて事ある訳がない
ごめんね!で済むような罪じゃない

 

それでも儀式には罪悪感から心を解放する力がある、事実とは別に
本人の心は確かに安らぐのだ

 

それと似たような理由で
宮本武蔵は仏像を掘った
罪悪感が苦しくて仕方がないからだ

 

しかし木で出来た仏像が幾ら増えた所で
死んだ人は生き返らない
仮にクローンとして再生した所で
罪は消えない

 

儀式には罪を償う力がある

宮本武蔵になりたくないと思ったけれど
その逆にはなりたいと思った

 

要するに、罪を償う儀式をしたいと思った

 

実は文化には大きな罪がある


身勝手な都合の押し付け合いで手に入れた金を使って、虐殺され続ける家畜の肉を楽して食い続ける事は明らかな罪だ

 

自然の理として、飢えに苦しむ獣は
必死に獲物を狩り、
命を繋ぐ事に全力で生きる

 

しかし文化に生きる人間はとても卑怯者なので楽をしている

けれどいくら罪深いからと言って
本当に文化を破壊したいわけでは無い

 

願望は実現すると言われているが
創作物は本当に実現してしまわない為の
儀式として扱われる事がある

取りあえず演技で済ませる
それが儀式だ

 

そして私が思うに
文化的な罪を償う儀式が
格闘技だと思っている

 

人間は動物だ、卑怯に生きる事が正義では無い、動物としての闘争本能を思い出せ
、金や権力、地位など紛い物で生きる為には拳で語るしかない、と言う事を表現する儀式だと思っている

 

儀式は偽物だからいい
現実化してしまうとより多くの罪を重ねてしまう

地球や人類が滅亡するドラマは
滅亡してほしい欲望が
偽物で解消されるから意味がある

願望を実現させない為にも
儀式は必要なのだ