ペタの哲学部屋

私ペタ(ハンネ)、が哲学を自重せずに展開していくブログです

我流と模倣、争いについて

自己哲学の面白い所は前人未到の解答に出会える事である
なれて来ると毎日のように新しい発見があり
その新しい発見という食料を求めて生きるような生活になる
私はこの快感に魅入られた哲学ジャンキーなのだと思う
そしてそんな自称哲学者になるには条件があって
それは我流で考える事だ、模倣しているだけでは前人未到の解
オリジナルにたどり着く事はできない
本を沢山読んだり真似したりしていれば
他称哲学者にはなれるかもしれないが、
肝心な本人は自分を認める事ができないかもしれない

さて、では我流と模倣について説明しよう

著作権の侵害、という概念がなぜ存在するのか考える
発明家が発明をパクられた場合、
パクられた人はされるはずだった賞賛や資金
を奪われてしまう、という社会的側面の問題と
真似される事自体が侮辱に思える
という主観的問題が発生する
なのでその事を訴える為の法律が作られた

ただし、結局の所、パクられた人が訴えなければ問題にならない
そして黙って見ているだけなら、本来オリジナルであった人間が
模倣者として認知される可能性があるし
たまたま似たような時期に同じ考えが生まれただけかもしれない

模倣と我流という概念は時としてその権利を奪い合う事になるので
争いが発生する、

なので模倣と我流を説明していくと結論としてぶつかる問題が
人はなぜ争うのか、という問題になる
争いというシステムは客観的に判断すると
集団の学習プロセスといえる
対立する考えが発生し、どちらが優れているか優劣を決め
模倣されるべき象徴、という椅子を賭けて戦う
そうやって淘汰されていく事によって文明は進化していく

そしてこの争いにもレベルが存在し
争いというのは、学習形態の一つなので
問題を解決するか、長所を伸ばす為に行う行為といえる
それがレベルの高い争いか、低い争いか
というのを見極める為には表面だけみていると解らない

争いを医療に例えて説明しよう
レベルの高い医術というのは、成功率が高く
患者への負担やリスクが少ない物の事だ
そしてレベルの低い医術は逆に成功率が低く
患者への負担やリスクが増える

つまり争いのレベルというのは
成長という目的に対するリスクリターンで決まる

大きな被害や大きなリスクがある争いというのは
錯覚しがちではあるが、事が大きくなればなるほど
争いのレベルは下がる

見かけ上の数や大きさが大きい程それが重要に思える
という根本的な本能が時として大きな過ちを犯してしまうのだ

人気がある人が偉大とは限らないし
金持ちが偉大とも限らない

なぜなら多くの道具や兵隊が無いと生きていけない
というのは、一人で生きて行ける人よりも能力が劣っていると言えるからだ

ただ、ここでいう能力
というものは見かけ上のステータスではなく
その人間がどれだけ効率良く幸せに生きられる能力があるか
という事だ

より多種多様の装備を揃えている弁慶よりも
軽やかに舞い、扇子で脛を叩いた牛若丸のほうが強い
と言える

ただし、別に弁慶が淘汰されるべき悪者でもないし
牛若丸が模倣されるべき象徴でもない

たとえば弁慶と牛若丸が学校にいて
どちらがリーダーになるべきか
そしてどちらがいじめられるべきかを考える

リーダーに選ばれるという事は
いじめの対象に選ばれる事と相対的だ

よく、いじめられる方といじめる方どちらが悪いか
という下らない話題を持ちかける人がいるが
別にそんなのどっちでもよく
いじめ、という現象その物が問題だ
集中力のある人はその集中力のせいで全体が見えなくなるのだ
そのせいで問題を解決する側でなく
一緒に争う側に入ってしまう
いじめを無くそう、という会議でいじめが発生してしまう
というなんとも下らない事になってしまう事もよくあるのではないだろうか

さてでは外側から結論を出すと
いじめられっ子がなぜいじめられるかというと
レベルの低い闘争を発生させてでも気になる何かが
その子にはあるからだ、
消化する技術がなく大きなリスクを背負ってまで何かを
得ようと集団が考え、攻撃実験、という愚かな行為に走ってしまうのだ
リーダーに仕立て上げるのも同じ考えで
集団がリーダーをその椅子に座らせるとどうなるか
という実験対象として得ればれるからリーダーはリーダーになる

ようするに、学校のいじめと
選挙と戦争は同じ問題なのだ

最後に
いじめや戦争というレベルの低い争いを
レベルの高いものにしていく事を説明する

レベルの高い医術を想像してみればいい

ガン治療を例にしよう
私は現在のガン治療がどの程度か知らないが
メスを使った手術よりも
ナノマシンが開発され、ガンをノーリスクで分解するほうが
優れているのは明らかだろう

ガン細胞を摘出するというのは
転移するリスクや、そもそも肉を切るというダメージから
避けては通れない

ガン細胞を集団における逸れ者に例えると
雑な手術というのがいじめと言える
そもそもガン細胞かどうかという判断すらできずに
実際はただ単に他より優れた筋肉かもしれない
他と差があるというだけで混乱するのがレベルの低い争いと言え
レベルの高い争い、つまり集団におけるレベルの高い学習形態
というのは、
異物を排除するのではなく
より少ないリスクで理解し、成長していくという事になる

食という避けられない争いの世界で
最も多く繁殖しているの生命は植物で
それは水と土だけという最も負担の少ない方法で
争いに勝利し、食、生きるという権利を勝ち取っている生命だからだ

多くの事が可能な代わりに本質を見失う人間と
殆ど動けないが本質的に成功している植物
は相対的であって
人間が植物から学べる事は果てしなく多く
まじめに授業を受けるよりも
よそ見をして草や空を眺める方が実は学習の本質に近い

集中するという闇と新しい事に興味を持ち
広がっていくという光
双方のバランスが重要で依存から離れ成長するためには
相反する思想両方を受け入れなくてはならない