ペタの哲学部屋

私ペタ(ハンネ)、が哲学を自重せずに展開していくブログです

正義とは


正義とは

「真実を見極める力だよ。真実が見極められないから迷う。迷うから我を失い、亡者にとりつかれる。だからこそ心臓が息の根を止めるまで真実を求め直走れ」

ドラマ、SPEC、野々村係長より


絶対的、普遍的真理、正義、

倫理学用語でこれをアプリオリと言う

そしてこの概念は思想、哲学の根本的な要素として、絶対的な正義など無い

アプリオリは無いと言われている


だからこそ、野々村係長の言っている言葉に重みが出てくる

正義とは絶対的な物でなく

それを求め進んで行く姿勢の事だ


進んで行く、と言うのは、

疑問、疑念に対して新たな選択肢に光を当てる事だ


だから悩む、考える

簡単に決めつけない

もっといい方法は無いか

対立している問題そのものに根本的な問題が隠れていないか

その答えを出す為に努力する事

それが正義と言える


なので物事に結論を出せば

その結論が雑であればあるほど

それが悪になり

その結果としてストレス社会を進行させる


決めつけが早い事は確かに効率がいい

ただし、正義、真実、真理という物は

問題に対立した人間がその問題に本気で考え無い限りありえ無い


ある種のマニュアルが完成したとして

常に疑問を持ち、進み続ける姿勢がなければ

神であろうが成功者であろうが

それを正義と呼ぶ事は出来ない


例えば、オカルトと科学いうカルチャーについて考える


オカルトを信じ過ぎ、科学的探求の姿勢を閉ざすのならそれは悪だ


逆に科学を信じ過ぎ、

未知なる可能性、オカルト、夢の可能性を閉ざすならそれも悪だ


世の中には結論を出してはいけない事がある

だから考え続けなくてはなら無い


信じる事、信用、と言うのは

取引の間で動く力だ


なので損得感情に流され、

ビジネス思想に流されていると本質を見失う可能性がある


信じさせたり、信じたりするのは

あくまで金稼ぎの世界だ


本質的な部分では、心の底から何かを信じる必要など無いし、金を稼ぐ建前以外でそのトリックを使うのは不幸を招く

疑いを持ち、成長する事

何かを信じるならそれと同等の覚悟

情熱と勇気を持って取り組む事

そして期待が砕けた時に立ち直る手段を十分に考慮する必要がある


戦略と言うのは魅力的だ

けれども、純粋な好奇心はもっと魅力的だ

直列思考と並列思考

直列思考と並列思考


一つ一つ細かく目の前の問題を対処する直列思考

全体を把握しまとめた上で問題の解決策を考える並列思考


直列思考のメリットとしては

あらゆる不満に他処仕切れなくなり

鬱状態になる場合

認知行動療法として直列的な対処が勧められる

例えば、小さい事、出来る事をコツコツと繰り返すと言う事

部屋が余りにも散らかっていて

片付ける気になら無いなら

とりあえず小さな区間だけ掃除する

すると段々片付いていき

次の作業、次の次の作業と段々問題が解決していく


次に並列思考

これは脳全体を活用する思考なので消耗が大きい、しかしそこから生み出されるアイデアは直列思考の物より革新的で

例えば、

部屋を片付ける場合、

活力があれば、一気にカテゴリ分けし

箱か何かに詰め込み、一旦埃を吹き飛ばす等

ゴミのまとまりを一気に運ぶのは効率がいいが大きな力が必要になる


文章や言葉の表現にも並列と直列がある

そして概要が知りたい場合

直列的な文脈と言うのは読み聞きするのがめんどくさい

学校の授業が退屈なのは

直列的な説明をしているからだと思う


女性に多い気がするが、

例えば映画を見て、それがどんな内容か説明してもらう場合

桃太郎を例にしよう


直列的な場合

「昔話なんだけど、500年位前かな、

その辺ちょっとよく解ら無いんだけど

おじいさんとおばあさんが居たんだって

ああ、でも当時は寿命が短いから

60才位かもね

おじいさんは山で芝刈りしてて

おばあさんは川で洗濯してたんだって

偉いね、ちゃんと共同作業してて

とまぁ、話が進まない

聞くのがめんどくさくて内容が入って来ない

その対策として、内容そのものを薄くする事もある

例えば日常系

どうでもいい日常を脚色し読み物にする

そう言う使い方もある

簡単な事をあえてめんどくさくする

と言う技法は小説等で用いられる

文章の多い小説を書く場合

文字が多い程価値がある様に見えるので

省ける部分をあえて長くする

と言う技法が使われる


理論や議論、論文では逆で

革新的である事を目的としているので

完結で伝わりやすい方がいい

湾曲して伝わると危険すらあるからだ

その為には木や林を見ずに

森を見なくてはなら無い

つまり並列思考が必要になる

桃太郎を例にすると

「川で拾われた桃から産まれた子供、

桃太郎がすくすくと育ち、犬、猿、雉を連れ、鬼が住む鬼ヶ島へ行き

鬼を倒し宝を持ち帰ると言う話

ちなみに、本来は桃を食べた若返った老夫婦が桃太郎を産む話だが、性描写の関係で桃から産まれた話として認知されている」


規則として、まず結論ら述べる

全体を見通した後

その反論、疑問、応用へと枝を伸ばす


賢人は複雑な事を簡単にし

愚者は簡単な事を複雑にする


と言うが、昨今では必ずしもそうでは無い


例えば自転車が壊れたとして

買い換えるのが賢いと言え

修理するのが愚か

と言う事では無いだろう


既存の仕組みを分解し

組み立てるには高い知能が必要で

一度自転車を治せる様になれば

そこで培った知識を使い

より簡単に治せる様になる


現代は、初めから使いやすく簡単な物が多い

そしてそれに頼りっきりで深く考え

仕組みを分解しないでいると並列思考は育たない


分解と組み立て、

簡略化、複雑化


美術的な面では複雑化が使われる事が多い

メタファー表現、比喩なのどがその例で

香水や香料をたくさんつけて実体をボヤかすような物だ

これも使い方次第と言えるだろう

しかし

そう言う楽しみ方もあるがそれが事実

現実から離れて行っていると言う自覚は必要だ

例えばメタファー表現の絵として

ハサミやコンパス、刺々しい物を集めて

それを人や動物の形に描写し表現したとする

それが文房具の絵である事も確かだが

人や動物の形をしている事も確かだ

小説が建前上、無駄に長い文章にしなくてはなら無いように

絵も写真との差別化として、あえて狂った価値観を描写する文化がある


では何が現実かと言うとそれは割り切れる訳では無い

例えば

直列思考だと生物は細胞だ

並列思考だと生物は細胞の集合で特有の形に纏まった物だ


過ぎたるは及ばざるが如し

現実を突きつけ過ぎても、誤魔化し過ぎても人は狂気へ向かう

その事を自覚した上でバランスを取る事が

重要で

使う側と使われる側の都合には

理解が必要だ


善悪

 

この事を書くのは少し後ろめたくはある
何故なら私は今から善悪の両方を否定するからだ

自分の事を善か悪、そのどちらかだと思っている人は多い
だから敵を作ってしまったら嫌なので
前置きを取る

早い話し、全人類は馬鹿だ
勿論自分も含めて
そして、愚かである事
無邪気である事は愛おしい

いたずら好きで無垢な子供は可愛い
猫にしろ犬にしろ
フェレットにしろ
彼らが愛されるのは善悪とは別の
無垢さからなる

けれども彼らに比べ人類は脳が発達し
文明が発達している

善悪と言う概念は
文明を築く為に刷り込まれた機能に他ならない

善の機能は文明を発達、意地する事を目的としている

そしてその逆の悪は文明に反逆する為にある

善を極めるとどうなるかと言うと
その世間で成功者になれる
人に好かれるには良い事をして
良い子になるのが手っ取り早い

善は文明と共にマニュアル化されていき
方法論はそこら中にある
古くから聖書、経典
善を極める為の技術は浸透している
だからこそ文明は現代のように発達しているとも言える

次に、では悪とは何なのか
と言う事について
善が光なら悪は闇
肯定があるから否定が存在する

富が善なら貧は悪だ

貧乏を否定しているわけでない

富を築くシステムが善で
それに逆らうシステムが悪だ

言ってしまえば善悪なんてどっちでもいい


物質は有限なので全員が善人になって
富を築き過ぎると地球が餓死する

草食動物と肉食動物の関係にも似てるが

草食動物が増え過ぎると植物が絶滅して
生態系が終る
だから肉食動物が一定数必要になる

人間界の話しだと食物連鎖よりは少し複雑で

動物界のように食っちまえばいい
と言う事ではない

富を築くマニュアルにそった生き方

その生き方は時々否定してやらなくてはなら無い

ロックはある種の反逆で
皆んなが皆んなお行儀良くしていたら
それはそれはとてもつまらない世の中になる
人はハメを外したくなる生き物だ

逆に皆んなが皆んな反逆的でロックノリノリだったら、それはそれはもう
ひっちゃかめっちゃか
麻薬はやるは強姦はするは
静かに暮らしたいだけの時もある

善悪で人が対立したり、どちらかを罵る事がある

善にしろ悪にしろ、人は鏡のような物なので
貧富の差で対立する場合
そのどちらの言い分も正しい

富を築く為の思想、善
それは時として腐った葉を間引きしたり
より美しい物を抽出したり
汚い物を排除する働きをする

確かに、野菜は綺麗な方が売れる
だが何もかも滅菌すると
免疫力が育たない
見かけ上の都合で汚い物を差別していくと
ウイルスと言う人類に匹敵する強敵が牙を剥き
立ち向かう為の力が育たない

貧乏の立場からすると、多少汚かったり
賞味期限が切れている事などどうと言う事は無い

ストレスが溜まるし、金持ちに嫉妬するから
時々文句も言う

裕福な人にとってはそう言った事が許せない場合がある

何故許せないのか?
人は鏡だ、

つまり、自分の貧困な意識が貧乏人に投影されているので
その自己嫌悪が反発し許せなくなるのだ

金持ちが貧乏人を罵る事程虚しい事は無い


全員が金持ちになったらインフレだ
そんな事はあり得ない

それぞれ能力や性格の差がある以前に
貧富の差は発生する

経済は椅子取りゲームみたいな物だ
席に座れる人もいれば座れない人もいる
譲る人もいれば、蹴落とし
蹴落とされる人もいる

椅子に座れ無かった人を見下す必要が何処にある?
いつまでも椅子に拘る必要が何処にある?

遊び方は椅子取りゲームだけでは無い
座らせられっぱなしで
あまりにも退屈なら
椅子をぶん投げて窓ガラスを割ってしまう
と言うのも
それはそれで気持ちがいい
(あくまで例えだが

言うなれば真面目に授業を受けるのが善
あまりにもつまらないから荒らすのが悪

結局、最低限の配慮というのがあって
度が過ぎるのは不味いが
あまり小さい事で喧嘩しない方がいい

子供の粗相に一々イラついてると
そのストレスが爆発して悲惨な事になりうる
些細な事がイラつくのなら
それは心が狭い証拠だ
広い目で見れば大抵許せる


ライオンがあまりにも牛を食べ過ぎるなら
規制が必要だが
ライオンが規制され過ぎると
今度は牛を規制しなくてはなら無い

バランスを保つには善悪にとらわれない
広い視野が必要になる

ちなみに、ここで言ってる善悪とは
体裁の事で心の中の事じゃ無い
善悪というのがそもそも表面上の問題だ

たまに人の心を見透かして
どうせあいつは屑だ
とか決めつける人がいるが
見た目や雰囲気だけで決めつけるのは
明らかに思慮不足で冷静になれてない
良く知りもせず、良く見極めもせずに人の心が解る程自分が優れた人間だったと言えるか
思い返した方がいい

自分もそうする


進み続ける者は自由であると同時に孤独だ


そもそも、人を集めると言う行為は

特定の場所に安住する為のスキルだ


自分の中でTwitterやブログとの付き合い方を考える事があって


人気が無かったり、やり取りが無い事に不満を感じる事がある

誰にでもある事で別に不思議に思わ無いが

要するに承認欲求の枯渇で

SNSでよくあるストレスを感じる事がある


そしてそんな中微かな嫉妬心を抱きつつも

人気になる方法を観察してみている


当然様々な戦略がある

基本的には

返報性の法則(お返し、相互等)

で成り立っている


あるいはそれとは別に、単になんらかの切欠で話題性が沸点に到達場合


このどちらかを戦略的に、

あるいは無意識的にやっている人がいて

そういう人達が特定のコミュニティを形成して行く


無意識にやってるなら別にいいが


問題は意識的にそう言った戦略を取るべきかどうかだ


そして思ったのが

やはりめんどくさい

という事


そして集客と言う行為がそもそもにして

自分が望んでいるスタイルと違うと思えた


自分が何故考え、言葉を発するか

と言う理由が

成長する為、変化して行く為だから

現状を維持する

集落を築き、人を集める

というのは

変えなくてはなら無い現状に他人を引きずり込み

変わら無い場所で生活して行く事を意味している


現状が満足出来る環境で無いのだから

そこに人を集める必要は無く

自分自身が変わらなくてはならない


変化し成長して行く事は孤独と隣り合わせだ

だからこそ、一期一会

何気無い所作

前を向いて歩く表情


好きな道なら楽しく歩け


そんな姿勢を大事にして行きたい


花は種や木に比べ質量が少ないが

体積が広く

米や果実のように優れた食材ではないが

魅力的で高値で取引される事もある


また、ポップコーンは弾ける前は食べれた物ではないが、弾けてポップコーンになれば

何と無く楽しい気分になり

味をつければ食感と香ばしさが加わり

映画のお友などに適している

ちなみに、意外とカロリーが低く

食物繊維が豊富で腹持ちがいので

ダイエット効果がある


ピエロの服装や道具は

嵩張るが軽く

無駄に派手に装飾されている

装飾に一々本物の宝石を使ったら

重たくて芸が上手く行かない


何が言いたいかというと

これらに共通しているのは

誇張されている事

つまり大げさな表現

抽象的思考、過大解釈

という、一見愚かに思われがちな思想が

実は豊かさにおいて重要な本質を備えている

という事


風が吹けば桶屋が儲かる


実際、冷静に考えれば

風が吹く事と桶屋が儲かる事は関係ない


でも、もしかしたら

巡り巡ってそう言う事もあるのかも知れない

バタフライエフェクトと言う言葉もある


わらしべ長者についても

何故わらが巨万の富に繋がったか

これはそこにある物を過大解釈させていったからに他ならない


そもそも、なぜ旅人がわらを持ってたかと言うと

お釈迦様のお告げがあったからだ

始めに手にした物を持って旅をすれば

巨万の富を得られる

とお釈迦様に言われたかららしい


その時点で既に過大解釈がされていて

お釈迦様をインド人ではなく

大仏のような神様としてその言葉を信じた


そしてそこにあるわらを過大解釈する人が現れ、みかんに、みかんが馬に

馬が家に

と過大解釈が連鎖していった


商業の基本は誇張する事で

過大解釈し、大げさに盛るから富に繫がる


奇跡が何故奇跡と呼ばれるかと言うと

過大解釈しているからに他ならない


大きさに比べ軽いポップコーンの様に

喜ばしい事、楽しい事は、幸せ、富は

大げさにした方がいい

マジックショーにせよネタが知れてしまえば

見た目程意味は無い事が解るが

そもそも、質量が高く

現実的で、重量がある

と言う事も言ってしまえば

価値がある事とは違う


キャビアよりポップコーンが美味しいならそれでいい、と言う事も現実に変わりは無い


重く、重量感がある様に見せ

厳粛さを守るのも幸せを守る一つの手段だが

逆に、軽く、弾けるように華のある表現をして行く

というのは幸せを膨らませる技術と言える


何にせよ、楽しく、幸せになるのはいい事で、何かを信じ、期待するというのは感情が持つ力と言える


力は扱い方に注意が必要で

人を不幸にもするが幸せにも出来る

不平不満、嫉妬、疑念を膨らませるくらいなら

夢や希望を膨らませればいい


ピエロが球から落ちたら痛いように

夢や希望と言う幻想が弾ければ

転んで痛い

でも転んだらまた立てばいい

そう言う生き方もある

良い技は心を良くする


人間は心技体が連動しているので

当然

逆に体が良ければ技が良くなり

技が良ければ心も良くなる


とりあえず、直ぐ体を良くしようとしても

目覚ましい効果はあまりない

というか、体は遺伝や環境に左右されているから、自分の技無しで体にアプローチするのは

他人の意思でしかない


だから体→技

というアプローチは他人へ使う場合のみ使える


しかし技を使えば体も変えられる


自らが問題を解決するには

技と心を考える必要がある


心→技、技→心

ここの部分は自らの意思で逆行可能


マッサージや手術

かゆい所に手が届かない場合は

他人の力が必要だが


鍛錬、自らが成長していくという行為は

自らの意思力が重要になる


人は基本的に他人に教わるより

自分で覚えたほうが効率よく成長する


ベストキッド、という面白い映画があって

初期は3部作で

ジャッキーチェンとブルースウィルスの息子が主演のリメイク作品がある


師匠のミヤギが弟子のダニエルに教える内容は一貫していて

それは日常動作の所作だ


雑巾で床掃除をひたすら続けさせ

左右の手の回転がそのまま受けの型になっている、というシーンがあって

ジャッキー版では服を効率よく服掛けに掛ける稽古をする


この、動作の効率化をひたすら鍛錬する事が

技を鍛えるいい方法で


長い事やっていると、自然と楽したくなる

だからもっといい方法が自然と思いつく

ただ、それを修行と受け止めているかどうかがそもそもの問題で

雑巾を使って効率化を図るから

技が磨かれていく

ここで掃除機を使ってしまうと自身が成長するチャンスが損なわれてしまう


やってみれば解るが

どうでもいい事でも効率化し

素早くこなせるようになるのは心地がいい


丁度いい例えが浮かばなくて恐縮だが


例えば

トランプの束をシャッフルして

その中かはダイヤのエースを見つけて

場に出し

またシャッフルする


それをひたすら繰り返し

素早く出来るようになってくると

楽しくなってくる


この、何気ない感覚を得れるように物事を続けると技を覚えるのが得意になってくる


なので一見大して意義が無いように思えても

スキルを習得するスキル

というのが鍛えられると

選択肢が広がり

その分自由になれる


このスキルは言うなれば

雛鳥が覚えるべき飛び方のような物

そして飛べるようになれば

いつまでも巣に居る必要はない


ただこの世には学べる事があまりにも多いので止まり木は無数にある

飛び立ち、何処に行くのかは個人が決める事だが、

飛び方を知っている人は

最低限誰かに伝える必要がある


そんな感じだから書いた

重力について

力を本能的な観点として見ると
それが畏怖の対象であるか、と言う基準で判断できる

 

よって
重力はそれが畏怖の対象であるからして力と言える

重力の仕組みとしては、一説として巨大な物体が移動する事によって
空間に歪みが発生する、というのを聞いた事がある

一見意味不明なその事を解りやすく想像してみると
スネ毛を抜いた時の事を考えるといいかもしれない

 

スネ毛が地球で、周りの肉が空間とする

スネ毛である地球は移動しているので、空間である肉は
スネ毛を抜いた時一緒に盛り上がる

 

スネ毛と肉の間には摩擦力が生じ、
スネ毛を抜いた時周りの肉は引っ張られ
毛と一緒に体液や皮脂をつれて来る

 

巨大な物体である地球が移動する、というのはそれのスケールがでかく
なったようなもので、
私たちは地球というスネ毛にくっついた雑菌みたいな物だ

巨大な船が移動すると波が起こって、近くにいるとちょっと引っ張られる
そんな感じだと思う

 

諸説あるので正確ではないが
多分そんな感じの原理なのだと思う

 

まあ、それたが、そういう話が本題というわけではない
着目しているのは重力が恐怖の対象であるという事

基本的に人間は高い所が怖い
けれども赤ちゃんは高い高いすると喜ぶ

高所恐怖は後天的な物と考えられる。
生れてきて、あらゆる力に触れ人は学習していく
そして、もっとも身近にある力というのが重力

 

体重が増えてきて、転んで痛い思いをして
食器を落として、と重力の性質を学習していくにつれ
やがて、それが時として危険な力になるという事に気がついていく

高い所が好き、というのは重力の脅威を知らないか
あるいは恐怖を克服し、純粋な感覚を味わっているからなのだろう

 

五行説の土生金、土の中から鉱物を採掘できる
これに、土に経験、金に信用 を当てはめると 
*(土は生物や物質の残骸、役目を終え形が崩れた物)

経験が信用を生む、といえ、物事には陰陽、正負がある

 

重力の影響で受けた痛みの経験が、高所に対する恐怖を生み
それを克服する手段の命綱や受身、トランポリン等が、高所を克服する信用を生む

 

それはそうとして、重力は大抵の人間が共通して感じている力だ
だから集団心理の投影であるFXのチャートにも多分重力が影響している
具体的に意識していなくても、高い所から落ちるのが怖い
そんな無意識が共通していると思う

ドル円で考えた時
反転チャートを見る人はあまりいないとして
ドルが買われるとチャートが上昇していく

ドルが買われすぎる、というのは日本人にとって脅威だ
日本円の価値が下がるので、アメリカ産の商品が高くなる
だからそういうイメージを持たせやすくする
という大衆を誘導するトリックがあるのかもしれない

勿論、アメリカ側から見た場合、反転チャートを使わなければ
逆の現象が起きている

とはいえ、別にFXでドルを買ったから日本が不利になる
という事とも思えない
利益を出せば、アメリカの金が日本円に変わり
その金を使うと日本が少し優位になる

紙幣は発行すれば出てくるが、海外と比べ
そのバランスを取るには取引をするしかない

国と国が主張し、欲しているのはその国の優位性
はやい話、戦争は強盗みたいな物で
いっその事全部くれてやればいい(全部は多すぎるか、、

この金は自分達の物だ!お前達には渡さないぞ!
という、貧困な意識が、国を貧困にさせているのだ

と、まあ
人の振り見て我が振り治せ
裕福な意識を育み、私も実際に稼げるよう頑張らねば

 

最後に
金は信用、つまりは宗教
宗教ってのは怖い部分もあって金もそう
でも困った事に金という宗教は力が強すぎて従わない事には生き難い

紙様が神様だからその力を理解し使う側になる事が
経済国での一つの自由と言える
育ちの格差ってのは確かにあって厳しいけど
意識を変えていけば何とかなると思う
思いたい
初めから経済的に自由な権力者もいるけど
自由というのは勝ち取れる物

五行的に金の力ってのは1/5の力で
昨今の世の中金に傾きすぎじゃね?って思うけど
文句を言っても仕方が無い