ペタの哲学部屋

私ペタ(ハンネ)、が哲学を自重せずに展開していくブログです

生き抜く為の息抜き


Twitterで頭のいい人と悪い人の違い

と言う話題で波紋を呼んでるのを見かけました

リンゴを見てただリンゴだと思うのか

多角的に捉えるかの違いであれこれ議論されていました


そして目立ったのが多角的に捉えるタイプへの批判や嫉妬心

確かにリンゴを見てリンゴだと思うのは正しい、そこにリンゴがあるだけでそれ以上の事は求められていないからだ

リンゴを見ただけで特に何も考えなかったからと言って頭が悪いと言われるのは理不尽だ


しかしそれと同時に物事を多角的に考えて深掘りする人の事を批判するのもまた理不尽と言える


世の中は何かと便利になって

スピードや合理性が求められる傾向にある

いらない物を捨て、シンプルに

スマートである事を美徳と考える事が流行っている


それもそのはず、その方が楽だからだ

けれどもならば単純ならそれでいいのか

と言うとそうでは無い


生きていくのはそんなに単純じゃなくて

必ず何かしら問題にぶつかる


世の中が便利になって

環境に恵まれていれば問題は誰かが解決してくれる

スマホにしたって簡単に使えるが

実際は到底及びもつかないような複雑なシステムと構造で作られている


言われた通りにしていればお金が稼げて

好きな物が買える

だから考える力なんて無くても生きて行く事は出来る


しかし単純思考のまま生きていると他人を不幸にしてしまうし、発展もなければ困難を解決する事も出来ない


自分と違うから嫌い

なんと無く嫌だから逃げる、攻撃する

批難する、そんな事をしていては平和はあり得ない

そうやって単純思考で気に入らない物を排除して、自分で理解せず人に頼ってばかりいるとその環境はどんどん悪化していく


けれども単純な人は愛されやすい

それもそのはず、赤ん坊と同じだからだ

意見を持たず、意思を持たず

ただ可愛い、だから人が面倒を見てくれる


そのまま大人になると何がまずいかと言うと

まともに子供を育てられない

人に何かを教える事が出来ない

子供がただ苦しむか犯罪者になる確率が上がる


平和で豊かな世の中には深い思慮を持った人間が不可欠だ


当たり前の事で、そもそも豊か

と言うのはバリエーションが多い事であって

単純な事では無い


単純になり、断捨離してシンプルになるのも悪くはない、けれども実際シンプルになって見ると大抵退屈になるだろう

その退屈は学習し成長しようとする知的欲求

そこにリンゴがあるとリンゴはただのリンゴでなく、知恵の木の実になる

その事に気がついた時

ただ与えられて生きていた雛鳥は自分で考える力を持った大人になれる


理解する事が増えるとそれだけ困難も増えるが、その困難が乗り越えられる物だと言う事にも気がつける


人は常に独り言を言うわけではないので何を考えているかは解らない

生物は皆、排泄せねば生きて行く事はできず

言いたい事を言わないと息苦しくなる

人間は言語を糧にする情報生命体でもあるので時々溜まっている言葉を吐き出す必要がある

吐き出す物が子供の駄々なのか愚痴なのか理論なのか歌なのか

それは人によって違うが

呼吸しない事には苦しいので

あらゆる考えは認めるべきだ

揚げ足を取って批判しているだけでは子供は育たない、大人がすべき事は深い思慮と豊かな発想を持ってして他者を導く事に他ならない

差別の無い平和な世の中を作るには

考える力が不可欠だ


生と死とアート

他人が死ぬと写真に変わる

死んだ時はショックが強くて様々な感情が渦を巻くが

しばらくすると、昔そういう人がいたと言う歴史的証拠として

そっと写真が飾られる事になる


時間軸を長く見れば、他人が死ぬという事は

どうという事でもない

肉体をもって接触可能だった人間が

写真に変わるだけだ


しかし死ぬのが自分の命だとすると一大事で

生き延びる為、より良く生きる為

良い思い出を作る為に人々は日々奮闘している

そんな大事な大事な命が

いざ終わってしまい、葬儀が終わり写真に変われば

飾られている動物のオブジェとさほど変わりない


人形を部屋に飾る人は、その人が誰かにとって大切だった場合

写真として飾られる事になり

飾る側から飾られる側に変わる


人は本来生きていない物をあたかも生きている様に見せる、という稀な性質がある


右往左往して一生懸命生きても

最終的にはオブジェに変わってしまう


人生と言うものを死生観を皮肉った芸術として捉えると何とも淡白で滑稽な物になる


言うなればこれは芸術が持つ闇の部分と言えよう


しかし逆の光も存在する

それは、今目に見える物の輝きに気づき

幸せを分かち合う事


迷走する現代アートは個性を主張するあまり

混沌と混乱を含み、生命の皮肉に走る傾向がある


なので絵葉書になるようなありふれた作品

と言う物は、軽視されてしまう傾向にあるが

そんな、明らかに美しい物を共有する

と言うのが芸術が持つ光だと思う


脚下照顧、足元に光を当てる

と言うのは、今そこにある物の美しさに感謝する事


配られたカードを悲観するのではなく

可能性に光を当てて進む事

地の底に落ちて混乱してもゲームを投げ出さずに誤魔化し、楽しみ

また光を当てて行く事


素晴らしさと滑稽さを合わせ持つ

人生と言うゲームは無限の可能性がある

きっと楽しい事は上手く工夫すればそこら中にあるのだろう


写真に変わってしまわないうちに

このゲームをやり込んで行こうと思う

心技体、全人類が気付くべき事

心→技→体

この流れを誤るとろくな事にならない


初めから優れた遺伝子に恵まれた人は

体に恵まれている

なので技術を蔑ろにして落ちぶれる


初めから環境に恵まれた人は

技に恵まれる

そうなると心を見失いやすい

技に恵まれる、という事はそれだけズル賢く世渡りが出来るという事

なので技さえ獲得すれば社会的成功は容易

だから表面上は成功している用に見えるし

その様に見せる事も技の性質だ


そして心

これにはそもそも上下関係は無い

全ての生物が平等で

根本として、生きたい

と言う概念でなりたっている

あらゆる物質的差別によって見下され

表現力の無さ故に見え方が湾曲する


つまり、そもそも命とは元は無であり、純粋

純心であった心は

それぞれ生まれ育った肉体や環境によって脚色されて行く物だ


そして人は、生物は生きながらにして生まれ変わる事が出来る

細胞は実際何度も入れ替わっている

問題は心だ


表面上の成果や結果、見てくれというのは

技、体でしか無い

心を蔑ろにして、根性や技術で実行していけばどうにかなる


なので社会的成功者とてカウンセリングを受けるし、酒やドラッグにも溺れる

表面的にどうであれ、結局皆平等に苦しみと喜びの中で生きている


人間が人間を見る目、真実を見抜こうとする目と言うのは

極めれば極める程、その生物の心も見える


脳の発達と言うのは、数値的判断に留まらない無限の可能性がある

そもそもにして、人が他の動物と解り合える事自体、生物として稀な例だ

しかもそれは、表情筋や感情表現の乏しい

昆虫や植物にまで至っている


植物が好む音楽を察知し、好む栄養、環境を察知し

より良い物とする

それ程まで心を理解する、思いやる才能に恵まれた生物は他にいない


人間が持つ力として一番優れた物が心である


そして心は、確かに鍛えれば強くなる

だが鍛えているのが技術なのか体力なのかを履き違えてしまいやすい


最初に鍛えるべき心

それは表面上の技術や体力、見てくれを取り除い考える必要がある


経歴、実績、と言う客観的証拠は

技、体でしかない


心と言うのは平等で

生きたい、でも痛いのは嫌だ

誰かが痛いのは可哀想だ


と言うのが根本であり

生きて行くには他者の命を奪わなくてはなら無いという残酷と

自他の喜びがそれを癒すと言う

明暗が生物に共通している


なので真に優れた技と言うのは摩擦の少ない理

と言え

真に優れた体とはその技を活かせる肉体と言える


そして優れた心とは、偽りのない心であり

それを守り通す強さである

真実と誤解

この世の中には絶対的な真実も絶対的な誤解も無い、

けれども真実らしい真実と

誤解らしい誤解があるので説明していく


真実と誤解を考える時、事象を食べ物に例えると解りやすい

つまり

食べ物が消化可能で栄養になるかどうかを考えればいい


食物繊維は消化する事が出来無いのでカロリーも無い、エネルギーに変換する事が出来ないが、便通を整えたり食物のかさを増すダイエット効果がある

野菜には食物繊維意外の栄養も沢山あるが

もし食物繊維しか食べ無いとしたら

おそらく餓死するだろう

また、極端な事を言えば

プラスチックは多分食べようとすれば食べられるが、明らかに食べ物じゃ無い


事象がおおよそ真実か誤解かと言うのは

食っていいか食ったらどうなるか、と例える事が出来

物事がおおよそ理解可能か、不可能か

と言う度合いで判断出来る


世の中にはあらゆる問題や解答、言葉があるが、受け取る人間が理解するかどうかは御構い無しに発せられる言葉や表現が多い

そしてそれは理解しなくても

とりあえず食べる事は出来るし

食べさせられる事も多い


そしてそのとりあえず食べさせられる物事

これは、ほとんど真実でなく誤解であると思われる

その理論が正しいかどうか

と言うのは、ただ口に食べ物を入れればいいのではなく、味わってよく噛み砕いて判断しなくては解らない


何が言いたいかと言うと

語られる歴史、古い知識はほぼ間違いなく誤解されているであろうという事


古くなった物が食べられ無いと言うのは自然の摂理

しかしその化石の様な食べ物も

そのまま飲み込むのではなく

現代的な判断で

例えば100年前の米から科学的に酵母を取り出し、当時の酒を復元させる等

特殊な処理をすれば再現できるかもしれない


歴史というのは基本的に人から人へ伝わり

人は誤解と嘘に溢れているので

古い情報は古い程湾曲していると考えるのが妥当である

それでも現代まで価値を見出されている言葉が沢山ある

神の教えや仏の教え、偉人の教え

そういった物はそのまま言葉通り受け取っても、あまり意味が解る事では無いし

食べ物も人によってはアレルギーを起こすので必ずしも万人に必要な情報とも限ら無い


理解せずにとりあえず信じろ

と言う方針について


例えその言葉や知識が理解出来なくても

その知識に触れ続けていれば

その内理解出来る事もあるだろう

なのでとりあえず信じとけ

と言うのは教育方針として間違いとも言い切れ無い、理解出来ない生徒が多くとも

その中の誰かしらは理解に到達するであろうからだ


大学と言う場所を冷静に考えると

あれは大学教授を作る機関と考える事が出来る、ただし大学教授になれるのもなりたいと思う人もほんの一握りで、

学問の真理に進んで行く人も僅かだろう

しかし初めから学問の真理を目指す機関として大学を建設しても

生徒が殆ど来ないのが現実

なので就職先や人脈形成と言う餌を巻いて

大学教授と言う狭い門を潜る人材を探す機関と言える


有名だけど古くからある

よく解らない言葉というのは

大事な教え、それをよく解らない形のまま

とりあえずばら撒いて食わせて、その中の誰かが理解してくれればそれでもいい、と言う事なのでは無いかと思う

明らかに変型していても、勝手に変えたら誰かに怒られるかもしれない

と言う都合で、訳のわからない歴史

教え、と言うのがそのまま布教されているのが現実なのだと思う


最後に

例として徳を積むと天国に行ける

と言う考えについて解釈する


冷静に考えて早い話し、これは

得な事を積んでれば、やがて住居が豪華になる

ただそれだけの事だろう


得な事、と言うのは広い意味で物事の効率化

と言える、

そして最も効率が良いと言うのは

リターンに対してリスクが少なく

メリットに対してデメリットが少ない

そして摩擦も少ないと言う事

なので本当に得な事

と言うのは自分勝手にズルい事をする事では無く、一般的に徳を積む、徳が高い

と言う事と同義になる


幸せになりたかったらとりあえず笑い

感謝し、謙虚になり、節制する

それが比較的効率のいいやり方であり

やり方は他にも考える事ができる


とりあえずやってみて解る事もあるし

考えて解る事もある

何せ解らないまま何かを続けるのは

消化不良なので良く噛むか

いつまでも苦しむのならいっその事を考えるのを諦めてしまうのも手だ


何にせよ、水や理論は詰まらせると腐る

消化して流しやすく分解し水に流す事が大事だ

感覚の歪みの治し方

感覚の歪みの治し方


ペタ式五行思想のまとめとか

水行の技、明鏡止水と水流の記事を練って書こうと思ってましたが

間に合わせで水流の考えの一部を書きます


この季節は心的な意味、物理的な意味両方これを放置すると大変な事になるので対策は早めに取らなくてはと思いました


最近様々な場所がドブ臭くないですか?

あれには本当に困ります

排水トラップに詰まったヘドロが原因で

掃除して髪の毛等を溶かせる洗浄液を流したり、マメに手入れすればいいのですが

その作業を怠るとドブ臭が上がって来て

水道水まで臭くなり

水道水で洗うコップ、洗濯物

全て台無しになってしまいます

温度が上がってくるこの季節は雑菌の繁殖力が高く、より一層注意が必要です


そしてこの原因を心的に当てはめると

過去のトラウマや失恋等が詰まり

水流が滞り、感覚が腐ると言う問題です


たまに絵等でグロテスクな表現をする人が居ます、あれは危険信号です

水行が意味する感覚、それが何らかの消化不良で詰まり、異臭として主張されるように

感覚を表現する方法の一つである芸術でその危険信号を周りに伝え

助けてもらう為に無意識的にそう言う事をすると考えられます


水を腐らせる要素は土行

土剋水、なのですが

土とは木の古くなった腐葉土、過去と表す事が出来、その土や腐った木が詰まる事によって感覚は腐り異臭を放つようになります


そしてこれを解決するのが火行と金行です

まず、引きずっている不満があるなら正直に怒り、燃やし尽くす事

そうする事によって土が腐る可能性は減ります、そして埋もれていた負の感情があるのなら掘り起こして燃やしましょう

ちなみに感情の問題なので基本的に

物理的な復讐では救われず帰って病が進行します

また、金行には

金剋木、木を切り裂く力があり

パイプ詰まりの溶解剤には

水酸化ナトリウムが含まれていて

炭素化合物である髪の毛ヘドロを

鉱物が持つ力を利用して分解していると考えられます


金行を心的な意味で考えると

価値判断、

何かと何かを分けて考える力

区別して、整理整頓して見極める力

と言えます


なので理解不能な不安感等は

より丁寧に分解し、理路整然と並べれば理解しやすくなり、水流の滞りを解消できます

実際に部屋の片付けや水回りの手入れをするのもとても有効です


この様な心の問題を放置しているとやがて

自分の頭で消化しきれずに

現実世界でそれを具体化してしまう

という悲劇が起きてしまいます


所謂サイコパスと言われる人達は

心の水流の滞りを解消できず行動で表してしまう人と言え

その滞りさえ解消してあげれば

晴れた心の持ち主になれるはずです


ドブの魔物、クッパから汚いであろう排水管を潜りピーチ姫を救うマリオ

千と千尋であった元、川の神の腐れ神の詰まりを引っこ抜いた千尋


それらが表すように心の闇の原因は

異臭があり近寄りがたい場所に問題があります


なので清潔を好む現代精神医療や綺麗事では

解決出来ない事が多いのです


最後に

腐った感覚を救うのには勇気と覚悟

そして見極めが必要になります

臭い物に蓋をせず

排水管の詰まりに立ち向かう勇者が増え

清潔な川のような世の中になる事を願います

コーヒーブレイク

コーヒーブレイク


コーヒーブレイクは大人の至福

朝日とブラックコーヒーが約束されていれば

安心して目を覚ませる


コーヒーはミルクや砂糖が無い

ブラックがいい


苦味には傷心を癒す働きがあり

コーヒーは甘く無いからいい


心の傷を受け入れる事

それが大人になると言う事だ


甘いだけが人生の幸せではない

甘い世界が幸せと言う価値観を

コーヒーはブレイクしてくれる


戦いに傷ついた心を

一杯のコーヒーが癒し

そして新たな飢えと乾きを与え

また狩へと赴く

雑記

雑記


自分はブログに対して少し硬くなっていた気がする

そもそもは日記なので、人に読ませる必要も無ければ評価される必要も無い

何を書くかは自由のはずだ


ネットに繋がっているから自分の流れにいながらでも、他人の流れを見る事が出来るので

自分を見失ってしまったり迷ってしまう


表現の世界と我流の世界は違う

表現において、評価される事においては

模倣が重要になる


何かに似ている事、どれ位何かに似ているか

と言うのは一番評価しやすい

なので商業において競われるのが

模倣力と言える


世の中にはあらゆるノウハウやキャラクターが既に存在しているので

その中から適切な物にはまっていけば

誰かの真似をすればその波に乗る事が出来る


しかしそれは本当の自由では無い

誰かのやった事の真似事に過ぎなくて

やはり、自分の道を見極めなくてはならない

殻を破るのにも順序があり

守破離、物事の始めは守

ルールを守る、何かの真似事をする

と言う道理がある


世の中には様々な型が既に配置されていて

その型に効率よく収まる事が

その世界での成功と言える


しかしどこまで行ってもそれは井の中でしか無い、その場所には必ず外壁が存在し

その殻の外には新たな世界がある

その殻を破るのが

守破離における破であり


ルールを破る、と言う事で

それには既存のルールより強い力が必要になり、殻が破れた時その力は証明される


その時、自由が手に入り

新たな場所、新たな井の中を探す旅が始まる

それが離


旅人には帰る場所や泊まる場所が必要なので

同じ井の中に戻るのも選択肢に入るし

旅を中断する事、歩みを進める事も選択肢に入る

自由とは、より多くの選択肢を持つ事と言える


なので決められたルートを進む事

守の境地に比べ無駄が多い


何かしらの世界で成功したいのなら

そのルールに従い続ける

模倣がもっとも効率がいい


しかしその成功とは結局何なのだろうか

周りりの人間が勝手に決めた成功に過ぎず

それが本当の成功なのだろうか


こんな話がある(短く要約する

漁師と億万長者の話だ


釣り船に漁師と億万長者の起業家がいた

漁師は暖かな陽射しの下で

気楽に魚を捌いていると起業家は

漁師に収入を増やす方法を講釈しだした

「いいかい?今からお金持ちになる方法を言うからね、よく聴くんだよ」

「あいよ」

起業家は漁師の気さくさに面食らったが講釈を続けた、それは船と従業員を増やし船頭として指示を出し収入を得て、似たような方法で拡大していくというシンプルな物だった、

それを聴いて漁師は言った

「それでその後はどうするんだい?」

起業家は少し困り言った

「毎日釣り三昧さ」

「そいつはいいね」


幸せになる方法には大きく分けて二通りあって

ボトムアップ、とトップダウン

がある

ボトムアップは底から上げる方法

これは先の話の起業家がやる方法で

身の回りの生活を豊かにしていくと言うもの


そしてトップダウンは漁師が取っていた方法で、自らが降りて行き

幸せになると言う事で


ダイヤモンドが地面に落ちていたとして

自分で拾うのがトップダウン

ダイヤモンドに登ってきて貰うのが

ボトムアップ

と例える事も出来る


どちらが良い悪いという事では無いが

今ある幸せを噛みしめれば幸せになれるのは確かだ


しかし世の中にはルールという殻がある

釣りをするにしても遊漁券が必要だし

海や川が汚れていては魚が釣れ無い


人間関係や社会でも同じ事が言えて

目の前に様々な人がいても

一人一人にルール、価値観があって

話しかけるのには勇気や目的がいるし

無闇に話しかけても上手く行かない


バイト先でレジ店員に話しかけてくる客が何人か居て、それは基本的に余計な仕事が増えたり

場合によっては、他の客を待たせる事になるので迷惑だ

仕事中には仕事中のルールがあるので

雑談に花を咲かせて他の客を困らせる訳にも行かないし

そもそも自分が話したいとも限ら無い


お互いに心を開くにはお互いの合意が必要だ

なので同じ井の中、と言うグループに入り

ルールに従うという手段や

一人一人それぞれの都合があるので

相手のルールを見極めた上で調和する

と言う事が大事なのかもしれない


迷惑な客と店員とでは

店員は仕事をしている、と言うルールがあるので、その仕事に沿わない内容は迷惑になる

プライベートで話しかけられる分には何も問題は無いが

客が上という錯覚を利用し余計な事をしてくるのはマナー違反だ


人見知りと馴れ馴れしい人は相対的で

人のルールを察し思いやりを持ち

適切なタイミングや力加減を見極め

縄跳びの中に入る勇気が出せれば人間関係は上手く行くのかもしれない


人のペースを乱す強引なやり方もあるが

ペースを乱さないようなやり方もある


マイペースと他人のペース

内と外、そのバランスを見極めれば

人間関係は上手く行くのかもしれない


しかし最終的にはやはり自分が一番大事で

寂しくなる時もあるが

一人で居るのは気楽でいい


人は一人では生きていけないのではなく

一人だと寂しくなる


人は金を稼がないと幸せになれないのではなく

金が無いと虚しくなる


誇張される事、盛って話す

と言うのが商業の基本で

真理はそんなものなのだろう