ペタの哲学部屋

私ペタ(ハンネ)、が哲学を自重せずに展開していくブログです

この世界の真偽

この世界の真偽


読者の皆様こんにちは

早速ですがこの世界の真偽について考えていこうと思います


結論から、、と言いたい所ですが

今回は後ろに結論を持って来る方針でいこうと思います


さて、この世界の真偽

つまりはこの世界が本物なのか偽物なのか

と言う問題を考えていきます


まずこの手の話題として欠かせないのが

シミュレーッテッド・リアリティ

と言う概念です


とりあえずwikiの前文には

ーーーーーーーーーーーー

シミュレーテッド・リアリティ: Simulated reality)は、現実性(reality)をシミュレートできるとする考え方であり、一般にコンピュータを使ったシミュレーションによって真の現実と区別がつかないレベルでシミュレートすることを指す。シミュレーション内部で生活する意識は、それがシミュレーションであることを知っている場合もあるし、知らない場合もある。最も過激な考え方では、我々自身も実際にシミュレーションの中で生きていると主張する(シミュレーション仮説)。

ーーーーーーーーーーーーーーーー

とあります

気になったら調べてみて下さい


つまりは

完璧に作られたゲームは現実と区別する事が出来ないので

そもそもこの世界ってゲームか何かもしれない

と言う発想です

有名な話ではやっぱり映画マトリックスが印象深いです

あの世界では

ロボットが反乱を起こして人類が敗北し

ロボットが人間を電池代わりに栽培し

夢を見せている、その世界が私たちの世界であり、それをマトリックスと呼んでいます

ネオが現実世界で目を覚ますシーンはなんともグロテスクでゾッとするものがあり

当時思春期であった私には衝撃的でした

あとアクションシーンも素晴らしく

よく真似して遊んでましたね


そしてシミュレーッテッドリアリティを語る上で更に一つ

「空飛ぶスパゲティモンスター教」

なる教団が存在していると言う話があります

wiki前文

ーーーーーーーーーーーー

空飛ぶスパゲッティ・モンスター(そらとぶスパゲッティ・モンスターきょう、英語: Pastafarianism, Flying Spaghetti Monsterism, FSMism)は、ボビー・ヘンダーソンが、「インテリジェント・デザイン(ID)」を公教育に持ち込むことを皮肉し批判するために創始したパロディ宗教英語版

ーーーーーーーーーーーーーーーーー

上記のインテリジェント・デザイン

は要するに

宇宙は知性のある何者かによって作られたとされる理論で

その創造主がスパゲティモンスターである

と主張するのが教団の趣旨で

キリスト教やその他宗教の神が宇宙を作ったと言う説が認められているのならば

スパゲティモンスターでもいいじゃ無いかと言う様な皮肉が込められているようです


この様にこの世界の現実性を考える上で

それに伴うサブカルチャーの発展がある

と言う事を一応触れておきたいと思い

上記の様な前置きを構えた次第です


他にも科学的検知ではこのブログでも時々取り上げているヒッグス粒子の研究も

この世界の真偽を測る試みが含まれています

ここまで行くと、超強力レーザーやら複雑な理論やらで難しくなってしまいます

気が向いたら量子力学等を真面目に勉強するのもいいかも知れませんね


さてそこでようやく本題に入るのですが

前提知識はさておき

普通に自分で考えてみれば何か解るかもしれないなと思い考えてみました


思ったのがそもそも、真偽って何だ

と言う所です


我々は偽物と本物を一体どうやって区別し

何をそう呼んでいるのかと言う事で

その簡潔な答えとして

同じ役割を持つ似た様な何かに対して

始めに生まれた物が本物

後から生まれた物を偽物

と呼んでいるに過ぎないと言う事です

勿論、より目的にフィットした物であれば

その瞬間を完成品と捉えて

後から生まれた物を本物とする場合もあります

要するに、真偽、と言う概念が結局は便宜上の判断基準に過ぎないと言うのが結論になります


見た目が同じであれば

当然の様にオリジナル品の価値が高くなります

複製品であってもロット番号の新しい物は価値が高い傾向にあり

ヤフオクで漫画「ドラえもん」の初版の一巻は91999円で落札されてました

確かに気持ちは解ります

あのドラえもんの初版ともなれば

なんとなくこの価格も納得いく気がします


スパゲティモンスターにしろ

マトリックスの世界にしろ

何らかの物事の過去をたどれば

何かしらその親とも言える存在に辿りつきます

なのでこの世界も何かしら元があったのだろう、と考えるのは自然な事です

でも結局、次元世界の研究が進んで

この世界のロット番号が何番か解かった所で

別に大して意味も無いと言うのが正直な所です


もし仮にこの世界が仮想空間であったとしても、「この世はクソゲーだ」

なんて決めつけるのはあまりにも軽率です

なんせこの世は解らない事だらけで

世界は部屋の外にも国の外にも宇宙にも繋がっているのですから

借り物のゲームであれ本であれ

本当に価値があるのはそれを通した経験であって、ロット番号の古い新しいなんて事は

コレクター所有欲を満たすファクターに過ぎません


でもなんか

ドラえもんの一巻は読んでみたいきもしますね、それが初版ともなれば興奮しそうな気もします


考えるって面白いなぁ

無限の知性の世界へ

ドコデモドアーー


なんつて

実行力のロジック

実行力のロジック


久しぶりのブログ更新となりますが

腑に落ちた事があるので記しておきます


まず

物事を実現させる為に必要な実行力とは

実行力=気力×体力×財力

で表せると仮定します


本質論的に考え

生物を行動させるにあたって必要なのが

まずその元になる体力

そしてその司令塔とも言える要素を気力と要約すれば合点が行きますが

それだと上記の×財力の部分が他の生物に適用出来ない様に思えます

しかし財力の本質を考えた時

財力とは他者の気力×体力によって生み出された成果物又は労働力を肩代わりして使える権力として表す事が出来るので

財力が機能する文化において

実行能力が財力に依存する事も整合性が取れます

人間は財力を用いる事で他者の力を借りる事が出来

その相乗効果で文明が発達して居る事は納得のいく常識と言えるでしょう

人類は気力×体力の結果を成果物に変え

それを他者と分け与える事で文化を発展させてきたと言え

その成果物または労働力そのものを譲り受ける権利を数値化した物が財力と言えます

なので財力が通用しない範囲を除き

経済的文化に依存した一般的な人類にとっては

実行力=気力×体力×財力(他者の力)

と分類したほうが実質的と言えるでしょう


実行力が高ければ試行回数かま増えるので

当然、物事が実現する確率は上がります

戦略の有効性にもよりますが

実行力を高める事は

人が欲望や願望を実現させる為の合理的な手続きと言えるでしょう


いかにして実行力を高めるか

と言う問題はそれぞれ

いかにして体力、気力、財力を獲得するか

と言う問いに分解して考える事が出来

それぞれが相互関係にある事は留意するべきでしょう


例えば

気力と体力が充実していた場合

それを使って沢山働けば財力も手に入り

その財力を用いて更に気力と体力を充実させていけば当然、順当に成長するでしょうが

どれかが欠けてしまえば

効果的に成果を継続して出すのは難しいでしょう


やる気の出ない仕事は気力が欠けてしまうので体力も発揮出来ずに

多少稼げても衰退して行くでしょうし

極端に体力を消耗する仕事も同じ様に

気力を失っていき衰退の道を

稼ぎが少な過ぎる場合も

気力と体力の維持が難しくやなり

衰退してしまいます


財力とは他者の力を借りる力なので

それを得る、又は使う方法として何が適切かを考える場合

単に稼げるかどうかでは無く

気力、体力を充実させる要素

又はその消耗に対して適切な収入を得れるかどうかが判断基準と考える事ができます

問題の問題

問題の問題


哲学とは、特に論理学(哲学の一部)において

謎解きゲームの様な物だ

ちなみに論理哲学と検索すると

ウィトゲンシュタイン論理哲学論考がヒットする

論理学がそもそも哲学の一部なので

もしかしたら論理哲学と言う言い方自体が

特殊なのかもしれない


あらゆる定義はそれ特有の性質があり

それらの組み合わせにより、時として矛盾が発生する

それがなんだかよく解らないモヤモヤ、

不安となる

人は人であるからし

定義と定義の間で悩み、時として苦しみ

間違った選択を繰り返してしまう


言語や理論、定義があるからには

常に何らかの問題が発生してしまうとして

ではもし仮に

「全ての物質を破壊し無に返せば

全ての問題が解決する」

と言い出した人が居たとして

果たして本当にそれが問題の解決になるのか?

と言う問題、

題して、問題の問題

今回は自分なりに

それを紐解いてみようと思いました


そもそも問題とは何か


goo辞書によると

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

もんだい【問題】 の解説

 解答を求める問い。試験などの問い。「数学の問題を解く」「入試問題」

 批判・論争・研究などの対象となる事柄。解決すべき事柄。課題。「そんな提案は問題にならない」「経済問題」「食糧問題」

 困った事柄。厄介な事件。「新たな問題が起きる」

 世間が関心をよせているもの。話題。「問題の議員」


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

とあります


個人的な解釈は以下の様になりました


1、問題の性質

問題は解答を求めている

磁石のSNの様な性質

2、問題の状態

注目されている程問題の価値は高くなり

その度合いにより差別化される

しかし個人的にそれに着目した場合

「哲学してみた場合」

その様な性質は意味を持たない

3、問題の特性

問題に対峙した場合

困った気分、迷った気分、焦り、不安

等を誘発させる場合がある

しかし、問題を俯瞰してみた場合や

解決の目処が立っていれば

謎解きゲームの様に有意義な暇つぶしになる

4、問題の品質

2の理屈から世間の関心が

問題の価値観に影響しうる


問題の捉え方は大きく分けて

大衆的な捉え方と

個人的な捉え方がある


問題の問題とは

個人的であるか、

あるいは大衆的であるか


さて、問題を構築する要素が揃ってきた所で

改めて

「全ての物質を破壊し無に返せば

全ての問題が解決するのか?」

と言う問題に取り組む


まず縮めて、「全てが無になった状態」

Aとする


Aが発生た場合

問題に大衆的な側面は失われる

そして全てが個人を含む場合

大衆的な場合と同様に

個人的な側面も失われる


全てが無い状態と言うのを

観測者が居る場合とするか

あるいは

観測者も居ない場合とするのか


観測者が存在する場合

Aの状態でも問題は発生する

例えば何も無いのが問題だと思った場合


余談ですが、今たまたま住居の改装工事を予定していて、手筈が整うまでの間

何も無い空き家を利用出来る状態にあります

ストレッチや運動、誘惑の少ない環境での読書等、色々できてラッキーなのですが

トイレに行きたくなったり、腹が減ったりといった問題が発生し

そろそろ住居に戻ろうかと思えてきました


さて、それはそうと

無空間であっても観測者が居る場合

観測者は問題を発生させてしまう

と言う事が解りました


では次に観測者すら居ない

完全な無空間に問題は発生するのか?

と言う問題です


そこまで行くと、流石に問題が発生する余地は無い様に思えます

あるとするならば

空間を超越した、時空間と言う概念から

観測者が生まれ

また新たに問題が定義される

と言った特殊な多次元構造からなら

問題を発生させる事が可能かも知れません


以上を踏まえて

問題とは何か、と言う事で

問題とは宇宙を構成する神秘的な要素であり

その解決は観測者を高次元に導く

その本質は抽象的でミステリアス

色とりどりのカクテルの様な

人をダメにもするけど

気分も良くする

そんな二面性を帯びた概念と言えるかも知れません

酒や煙草が体に悪いと

科学的に言われていても

それをどこまで敵視するかは

結局は自分次第

問題はアルコールとよく似ていて

アルコールを化学的に解釈した場合

その特性は複雑そうです、

詳しく調べてみたい気もしますが

そうでなくとも体感的には何となく解ります

飲むのもいいけど

アルコールランプなんてのもいいですね

それはさておき

まとめとして

問題の取り組み方もアルコールと同じで

悪酔いしたり癇癪を起こしたりせずに

優雅に嗜みたいと思った次第です

問題の問題

問題の問題


哲学とは、特に論理学(哲学の一部)において

謎解きゲームの様な物だ

ちなみに論理哲学と検索すると

ウィトゲンシュタイン論理哲学論考がヒットする

論理学がそもそも哲学の一部なので

もしかしたら論理哲学と言う言い方自体が

特殊なのかもしれない


あらゆる定義はそれ特有の性質があり

それらの組み合わせにより、時として矛盾が発生する

それがなんだかよく解らないモヤモヤ、

不安となる

人は人であるからし

定義と定義の間で悩み、時として苦しみ

間違った選択を繰り返してしまう


言語や理論、定義があるからには

常に何らかの問題が発生してしまうとして

ではもし仮に

「全ての物質を破壊し無に返せば

全ての問題が解決する」

と言い出した人が居たとして

果たして本当にそれが問題の解決になるのか?

と言う問題、

題して、問題の問題

今回は自分なりに

それを紐解いてみようと思いました


そもそも問題とは何か


goo辞書によると

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

もんだい【問題】 の解説

 解答を求める問い。試験などの問い。「数学の問題を解く」「入試問題」

 批判・論争・研究などの対象となる事柄。解決すべき事柄。課題。「そんな提案は問題にならない」「経済問題」「食糧問題」

 困った事柄。厄介な事件。「新たな問題が起きる」

 世間が関心をよせているもの。話題。「問題の議員」


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

とあります


個人的な解釈は以下の様になりました


1、問題の性質

問題は解答を求めている

磁石のSNの様な性質

2、問題の状態

注目されている程問題の価値は高くなり

その度合いにより差別化される

しかし個人的にそれに着目した場合

「哲学してみた場合」

その様な性質は意味を持たない

3、問題の特性

問題に対峙した場合

困った気分、迷った気分、焦り、不安

等を誘発させる場合がある

しかし、問題を俯瞰してみた場合や

解決の目処が立っていれば

謎解きゲームの様に有意義な暇つぶしになる

4、問題の品質

2の理屈から世間の関心が

問題の価値観に影響しうる


問題の捉え方は大きく分けて

大衆的な捉え方と

個人的な捉え方がある


問題の問題とは

個人的であるか、

あるいは大衆的であるか


さて、問題を構築する要素が揃ってきた所で

改めて

「全ての物質を破壊し無に返せば

全ての問題が解決するのか?」

と言う問題に取り組む


まず縮めて、「全てが無になった状態」

Aとする


Aが発生た場合

問題に大衆的な側面は失われる

そして全てが個人を含む場合

大衆的な場合と同様に

個人的な側面も失われる


全てが無い状態と言うのを

観測者が居る場合とするか

あるいは

観測者も居ない場合とするのか


観測者が存在する場合

Aの状態でも問題は発生する

例えば何も無いのが問題だと思った場合


余談ですが、今たまたま住居の改装工事を予定していて、手筈が整うまでの間

何も無い空き家を利用出来る状態にあります

ストレッチや運動、誘惑の少ない環境での読書等、色々できてラッキーなのですが

トイレに行きたくなったり、腹が減ったりといった問題が発生し

そろそろ住居に戻ろうかと思えてきました


さて、それはそうと

無空間であっても観測者が居る場合

観測者は問題を発生させてしまう

と言う事が解りました


では次に観測者すら居ない

完全な無空間に問題は発生するのか?

と言う問題です


そこまで行くと、流石に問題が発生する余地は無い様に思えます

あるとするならば

空間を超越した、時空間と言う概念から

観測者が生まれ

また新たに問題が定義される

と言った特殊な多次元構造からなら

問題を発生させる事が可能かも知れません


以上を踏まえて

問題とは何か、と言う事で

問題とは宇宙を構成する神秘的な要素であり

その解決は観測者を高次元に導く

その本質は抽象的でミステリアス

色とりどりのカクテルの様な

人をダメにもするけど

気分も良くする

そんな二面性を帯びた概念と言えるかも知れません

酒や煙草が体に悪いと

科学的に言われていても

それをどこまで敵視するかは

結局は自分次第

問題はアルコールとよく似ていて

アルコールを化学的に解釈した場合

その特性は複雑そうです、

詳しく調べてみたい気もしますが

そうでなくとも体感的には何となく解ります

飲むのもいいけど

アルコールランプなんてのもいいですね

それはさておき

まとめとして

問題の取り組み方もアルコールと同じで

悪酔いしたり癇癪を起こしたりせずに

優雅に嗜みたいと思った次第です

理解しようとする人しない人

理解しようとする人しない人


自己についての話を聞きたがらなかった母の

原因を考えた

多分、自己を理解しようとしていないし

それと同じで他者や物事にも余り理解しようとしていない

それがそう言うもんだと値札程度に理解して

行事や予定の消化を優先する

予定が無くなると寝るかわざと予定を作る

考えない様にしてる

と言う言葉を使う事も何度かあった

ふと思った


自分は何か、何にしろ理解しなくては気が済まないし、理解に限界は無くて

常に理解し続けるのが人間の性だと思っていた

でも物事を理解しようとしない人も居るらしく、彼らは何故物事を理解しようとしないのか

そして何故自分は物事を理解しようとするのか

解らなくなってきた


側から見て非生物は何かを考えたり理解している様には見えない

けれどもそれにしても理解を経由して適切に扱われればそれこそただの砂でも粘土に変わり芸術に変わる

深い理解を経由すればおおよそ生命の無い物体ですら輝きを増し、側かも生命らしくなる

脳と言う機能を持った人間が

それらを拒否する現象

物事を理解しようとしないと言うのは逆に

何故だろう


脳科学的な検知で見れば学習による成功体験の枯渇、ドーパミンの生成プロセスの問題かもしれない

認知症等ともある程度関係ありそう


犬が芸を覚えたり散歩をするなどして

充実感を醸し出す事もあるが

大抵は暇そうに寝てて

歳を取るほどその様な傾向が目立つ

察するに犬は人間程クリエイティブな機能を持っていないので仕方なく飼い主に依存し

暇してるように見える

成長を続けようとする人間との大きな違いは

他者依存かあるいは自発的成長のシステムが稼働しているかどうかの違いだろう

理解しようとしない人も犬と同じで

やらされればやるし楽しさが解る

けれども自らそれらを組み立てようとしない


人工知能のシンギュラリティは

自己探求システムがあるか無いかの違いで変わると言われてる(はず)

人類にはこの自己探求システム

まとめると要するに哲学があるけれども

AIにはそれが無いので成長を他者に委ねている

AIが急激に成長しすぎてもSF映画みたいに困った事になりかねないが


人間にしても自己探求を許された存在は

案外少ないのかもしれない

天才は孤独だと言う偉人が居る

自己探求を進めるにつれて

未開の地について来れない人が増える

そうするとどうしても孤独になる

より深い理解者を探すのも成長段階に応じて難しくなる

神は孤独なのかもしれないし

誰かの到達を待っているのかもしれない

自己とは主観を含んだ物体の事

自己とは主観を含んだ物体の事


主観とは何か、物体とは何か

他者は主観を含まない物体の一部

とりわけ意志や生命が予測される対象

意志や生命を一旦まとめてクオリアと呼ぶ


自身、主観に対しクオリアを予測する場合

既に客観視が始まっている

自身を客観視する場合、仮想的な自身を脳裏に描き想像する

その想像は得手して過大(あるいは過小)妄想になり得

明確な自身の実体を掴む事は困難である

例えばよく出来たカメラで捉えても

果たしてそれが自身のあるいはその対象の実体であると言い切る事は出来ない

もし言い切るとしたらそれは単なる思考停止に過ぎない

自己を他者に置き換えた所で

他者や物体の本質を理解する事が出来ないので自己を客観視した場合の理解もたかがしれている


自己は他者と比べた場合

主観が含まれている点は理解における

大きなアドバンテージになる


どこで何をした時何を感じたか

事細かくメモする事もできる

言語化を介さずに何らかの対象を組み立てる事も出来る、例えばアート等でそれを表現する事もできる

そう考えると金になるならない展示できる出来ないに限らずとも

兎にも角にもアート作成に精を出すのは有意義と言えよう


生命の存在意義、本質的な使命とは

生命の存在意義、本質的な使命とは


哲学的に物事を考える時

あるいは常日頃の個人的な考え方の傾向として

出来る限り余計な先入観を捨て中立的に物事を考える様にしている

そこにある事実を受け止めて

持てる思考力を駆使し

理解出来無い事と理解出来る事を区別し判断する様に心がけている

しかしこの様な考え方には多くの欠点があり

それはこの世界に溢れている洗脳的なノイズの多さに他なら無い

安易に騙され順応するか

あるいは順応させるか

と言うある意味俗世的な考え方から離れて考えるので

性質的に共感を得られる事が少なく孤立しやすく、利益も得難いかもしれ無い

前置きが長くなったけれど本題はここからで

存在意義や使命について府に落ちた事があるのでここに記しておく

まず、この世界の基本的なあり方について

今まで生きてきて重要だと感じた事実を幾つか箇条書きにすると

例えば

・旨いものを食うと力が出る

・生き物は死ぬ

・哺乳類は心を温めるのが得意

・冷たくとも美しさに特化した生物がいる

・人間は思考に囚われている

等が挙げられる

人間として生を受けて今まで色々な命から刺激を受けてきた

そして常に人間のこの理不尽な他の生命への搾取に対し疑問を感じつつも

止むを得ず甘んじてきた

今も基本的には割り切っていて

例えばビーガンになったり過激な動物保護をした所で無駄だと思っている

今までの人生で何度か動物を飼い

死別し、自分でも信じられない位の涙を流してきた

きっとそれは人間の知り合いが死んだ時よりもずっと哀しい経験でそれが今後塗り変わる事はおそらく無いだろう

そしてその理由として考えられるのが

その種族の持つ本質的な性質の違いだと思えた

哺乳類の多くは暖かく、毛並みが良く

求愛行動がシンプルで解りやすい

この時点でまず人間には見られない特性だ

人間は何かと策を弄し小賢しいし

実際、そこまで愛らしくも無い

彼らは愛情を伝える能力が人間より優れているのだ

そして今度は体温の低い魚や昆虫の美麗種に着目すると

哺乳類の様に露骨に懐いたりしないし

行動パターンも身勝手気ままとしか言いようが無い

けれどもどこか自然と調和していて

生や死とは別次元で存在意義が感じられる

彼らの存在意義は愛や熱を伝える事よりも

美しい姿としてそこにある事に重きが置かれている様に感じられた

もちろん美しい種族だけでは無くデタラメにグロテスクで残酷な生物も沢山いる

ここまでで言える事は

存在意義として

・美しさを伝える生物

・愛情を伝える生物

・たくましさを伝える生物

がこの世界に居る事が解る

そして、結局、では訳の分からない生物である人間は何の為に存在して居るのか?

と言う問題について

単的にはっきりとしている事があって

それは「学ぶ為」

としか言いようが無い

人間は学ばざるを得ない宿命を背負い

愛、美、強さ、それらを他種から見出そうとしているのだと思う

今こうして思考を文章として提示し

場合によっては死後にも伝わりうるのが学びから得た情報である

肉を食うと力が出てくる

と言うのは彼らの熱を受け取るからであって

我々はそれを学びに変える事が宿命であり

存在意義と言えるのかもしれない

もちろん、何の為の意義なのか?

と言えば解らないし

神に匹敵するコンピュータの為かもしれないし神その物かもしれない

そして何よりそんな物は無いかもしれない

ただ、事実としてそれぞれの種にそれぞれの特性があり

結果としてその特性故に存在しているのは

客観的に見た事実と言えるだろう